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つぎはぎだらけのユニフォームとガムテープで巻いたスパイクで試合に出場

 そんな生活の中で、宮城は4歳頃から野球に興味を持った。

「大弥は沖縄空手の道場に連れて行っても隅っこに座っているだけでした。でも野球だけは自分から『やりたい』って言ってきたんです」(同前)

 食費も切り詰めるような宮城家では、野球用具も満足に揃えられなかった。

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「子ども用の革のグローブは1、2万もします。その金額は家族の1週間、2週間の生活費ですから……。数百円のビニール製グローブは、革よりも硬く使いづらそうだった。柔らかくしようと電子レンジで一度温めたら溶けてしまい、大弥を泣かせたこともありました。ユニフォームもつぎはぎだらけ。スパイクはガムテープで巻いて、試合に出たこともあった」(同前)

 その逆境の中で、宮城の才能は開花。U-15の日本代表に選出され、甲子園出場の常連興南高校に進学。学費や寮費、遠征の費用のために、亨さんは仕事を掛け持ちした。

「子どもの進む道を支えるのは当たり前だから。そのころ大弥と話をしたことがあるんです。プロ野球選手になれたら、貧しい子たちが野球を続けていけるための活動をしようと」(同前)

 約束を果たすべく宮城はプロ入団時に契約金の一部を地元に寄付した。推定年俸8000万円となった昨年には、貧困家庭の子に野球用具などを支援する「宮城大弥基金」を発足させている。

球界初の試み「宮城大弥基金」のHP

「沖縄の3人を選んで、用具の支援を手探りで始めてます。18歳まで面倒を見るつもりです」(同前)