「母が私の首を絞めたり、包丁を突き付けたりするのです。病気のせいだったのか、それとも私が重荷だったのかわかりませんが、あの恐怖と絶望感は忘れられるものじゃありません。私には母しかいないのに、その母から何度も殺されかける。暴言を吐かれたり、八つ当たりでぶたれるようなことも数えきれないほどでした。そんな暮らしから逃げ出したくても、お金や居場所、助けてくれる人だっていないわけです」
母と山田さんを追い詰めた元凶である父は2人の困窮に目を向けることもなく、すでに別の女性と暮らしはじめていた。山田さんが20歳のときに両親は正式に離婚したが、その子ども時代は寂しさや貧しさ、父と母から受ける苦しみとの闘いだった。
「自分が散々つらい思いをしたから福祉の道に進んだ」、そう話す彼女はおとなになってから父との交流を絶ち、母とは別々の暮らしを送ってきたという。
認知症の母親への介入のタイミング
その母に認知症と思われる症状が現れたのは2年前だ。専門職の山田さんはすぐに異変に気づいて受診を勧めたが、母は「私は病院なんて行かない」と頑なだった。双方の自宅は車で20分ほどの距離だったため、山田さんは時間をやりくりして母の様子を見にいくことにした。
認知症になった母は料理の手順を思い出せず、自分でご飯のしたくができない。それでもコンビニのお惣菜を買ってくる様子に、山田さんのほうは「まぁ飢え死にしないならいいか」と考えた。母をないがしろにしていたわけではなく、介入のタイミングを計っていたのだという。
「そのころ母は道に迷って交番のお世話になり、パトカーで自宅まで送ってもらったりしていました。そういうトラブルのたびに『病院で診てもらおう』と説得しましたが、何度勧めても受診を拒否するのです。本人の頑なさ、これまでの生活歴や性格なんかを考えると、無理強いしてもうまくいかないだろうと。少しずつ段階を踏んで最低限のところを支えていく、それでも無理となったときのほうが本人も納得しやすいかなと考えました」