1ページ目から読む
2/3ページ目

 わたしにとって、正気に戻る時間とはいつだろうか。

 もちろん本を読むときだ。テレビもネットも遮断して、意識して1人きりになる。

 本は、1人で読む。1人で読むに決まっている。むしろ、独りになるために読む。

ADVERTISEMENT

 孤高を気取っているのではない。世間から浮きたいわけでもない。ただ、1人でいることも苦ではないことを学習する。孤立を求めず、孤独を恐れず。

写真はイメージです ©iStock.com

「いじめ」にあったことがない――長いこと、そう信じていた

 こういうことがあった。

 わたしは昔から体が大きい方で、運動もそこそこできたので、小・中学校でいわゆる「いじめ」にあったことがない。いじめたこともない。

 長いこと、そう信じ切っていた。

 数年前、小学6年生を相手に授業をしなければならなくなり、自分の小学生時代をあれこれ思い出すうち、ふと、「あれは、もしかしたら……」と思い当たることがあった。

 昔の小学生の遊びといえば草野球で、わたしはいつでも中心的なメンバーだった。サードを守り、クリーンナップを打つ。そういう子供だった。

 ところがある日を境に、ふたつのチームに分けるジャンケンで、どちらのチームリーダーにも呼ばれなくなった。指名されなくなった。最後まで指名されない。けれども「おれはどっち?」と遊び仲間に問うこともしなかった。いま思えば不思議なのだが、「そういうこともあるか」という気持ちで家に帰ってしまった。翌日も、翌々日も、チーム分けで指名されない。改めて思い返せばだが、ほかの子供たちは意味ありげな含み笑いをしたり、うつむいて決まり悪げにしていたように思う。

 書いていて自分でも呆れる。これは典型的ないじめだろう。

 そのときはたぶん音頭取りがいて、「あいつ、むかつくからシカトしよう」とでも話がまとまったんだろう。標的は、日々、移り変わってゆく。子供たちはいつ自分が標的にされるのかと恐れ、おどおど生きる。大勢に従う。いじめに加担する。

孤独でも、孤立はしなかった――本がある、から

 さてわたしはといえば、先ほど書いたようにさして気にするでもなく、家に1人で帰っていた。いじめとも思わなかった。「いまはそういう流れなんだろう」。子供にしては驚くほど達観していた。親にも教師にも、誰にも相談しなかった。相談したいとも思わなかった。

 家に帰って、本を読んでいた。レコードを聴いていた。実家はそのころ小さな雀荘をしていた。なので、家に帰れば流行歌や演歌、ほんの少しロックのドーナツ盤が転がっていた。端唄小唄のLPもあった。小さなテーブルプレーヤーでそれを聴いていた。

 そんな家だから書棚も貧しいものだったが、どこかの家のもらい下げか、表紙がはがれているような、ページが日に焼けた少年ものの本がいくつかあった。柴田錬三郎の「三国志」があった。わずかな小遣いをためて買った、三省堂のポケット版世界史事典があった。

 そんな本を、飽きもせず、繰り返し読んでいた。暗記した。

 音楽を聴きながら本を読む。

 思えば、小学生のころからいまと同じことをしていた。退屈だとは思わなかった。たしかに孤独だったんだろう。しかし、孤立しているとは思わなかった。自分を憐れまなかった。