スーダンの首都ハツルームで捨てられた赤ちゃんの数は年間1500人近く……小児科医・加藤寛幸さんが驚いた2003年のスーダンの状況とは? 新刊『生命の旅、シエラレオネ』より一部抜粋してお届けする。(全2回の2回目/前編を読む)
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「お前、帰った方がいいんじゃないか」
初めて国境なき医師団に参加した2003年のスーダンの活動で、一度、「お前、帰った方がいいんじゃないか」と言われたことがある。
2003年のスーダンは、今世紀最大の人道危機といわれたダルフール紛争で世界から注目が集まっており、国境なき医師団からも多くのスタッフがダルフールに派遣されていた。
しかし、僕が派遣されたのはそのダルフールではなく、首都ハルツームのマイゴマ地区にある孤児院だった。当時のハルツームでは、年間1500人近い赤ちゃんが捨てられていた。そのうちのおよそ3分の1は発見された時点ですでに亡くなっていて、さらに3分の1は発見された地点から孤児院への搬送中に亡くなってしまい、結果、残りの3分の1だけが生きて施設に辿り着けるという信じがたい状況だった。
さらに信じがたいことには、生きて辿り着いた赤ちゃんも、入所後1週間で約半数が、入所後1カ月では75パーセントが亡くなっていた。
活動に参加したばかりの頃は、何も事情を知らなかったので、スーダンの母親たちを恨んだりもしたが、当時のスーダンは、宗教的な理由から避妊や中絶は許されておらず、また婚姻関係にない男女間の性交渉は厳罰の対象だった。仮にそれが男性に強制されたものだとしても、より重い罰が与えられるのは女性だった。
そんな背景から、望まずに妊娠した女性たちは、厳罰や家族への社会的制裁を恐れるあまり、妊娠中は人目を避け、出産後すぐに赤ちゃんを捨てるという選択をしたのだろう。
毎日のように連れてこられる捨て子の赤ちゃんたちに圧倒されながらも必死に治療をしたが、僕の努力は何の役にも立っていないかのごとく、毎日のように赤ちゃんを看取る日が続いた。
僕にとってさらに追い打ちとなったのは、赤ちゃんを世話する現地スタッフが赤ちゃんへの感情移入を避けていたことだった。イスラム教徒のスタッフにとって、マイゴマ孤児院の赤ちゃんたちは宗教的にタブーな存在であったうえに、長年赤ちゃんを看取り続けてきた彼女たちが、自分を守るために自然と身につけた手段だったのかもしれない。