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「ダイアナ事件」で支持率は急落

 しかし「ダイアナ事件」は王室にとっての新たな試練の始まりでもあった。これを機に、王室の支持率も一時的に急落したからだ。特に、ある意味ではダイアナを不幸に追いやったチャールズ皇太子への風当たりはさらに強まった。世論調査では「女王の後には、チャールズではなくウィリアムが国王に即位すべきだ」と答える者のほうが、チャールズへの正統な継承を望む者より圧倒的に多くなるほどであった。

チャールズ皇太子とダイアナ妃 ©共同通信社

 実は「民衆の皇太子妃」として庶民からは慕われていたダイアナであったが、上流階級や上層中産階級など、いわゆるエリートの人々のあいだでは、ダイアナは嫌われていた。スペンサ伯爵家という名門貴族の家に生まれた彼女が、上流階級のあいだで嫌われていたというのは不思議に思われるかもしれないが、彼女は不幸な少女時代を過ごした。両親が6歳のときに離婚し、継母ともうまくいかなかったダイアナは、上流階級としての教育を受けられぬままに、日本でいえば中学校卒業程度で教育を終えてしまったのである。

イギリス王室の慈善活動への誤解

 このため上流階級に特有の礼儀作法や教養にも欠け、彼女がむしろ「庶民派」だったのはこのためだったのかもしれない。それと同時に、それまでの古くさい王侯貴族のあり方からも自由に育ったのかもしれない。ダイアナは、子育てがひと段落済むと、様々な慈善活動(チャリティ)に精を出すようになった。それは離婚して王室を離れてからも、対人地雷禁止運動やエイズ患者への支援という自らが立ち上げた団体を通じて続けられた。

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1990年11月12日、「饗宴の儀」 ©JMPA

 彼女がパリで事故死し、葬儀が行われるまでの1週間、テレビ・ニュースは連日のように彼女がこうした慈善活動で活躍した姿を映し出した。いつしか視聴者は、自分たち弱者のために手を差し伸べてくれたのはダイアナだけで、他の王族たちは何もしてくれないと誤解するようになっていった。ダイアナが慈善活動に邁進したのは、実は最後の数年だけであって、イギリス王室こそが19世紀半ばから率先して慈善活動を主導してきたのだ。