どうやら自分は遭難してしまったらしい――そう悟った瞬間、人はまず何を考えるものだろうか。

「よく聞くのは、仕事と家族のことですね」と、山岳遭難の取材を続けてきた羽根田治は語る。

「『明日大事な会議があるから、何が何でも今日下りなければ』とか『今日帰らないと家族に心配をかけてしまう』とか、そういう考えに囚われてしまうとますます焦りが募り、冷静な判断ができなくなる。仕事に穴を開けてしまっても命を捨てるよりはマシ、という風に切り替えられるかどうか。遭難から生還できた人は、そういう切り替えが上手な人が多いような印象はあります」

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(全3回の2回目、#3に続く)

写真はイメージ ©iStock.com

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倒木にはクマが爪を研いだ跡

 その一人が『山岳遭難の教訓』において羽根田が取材したSさん(当時64歳・書籍では実名)だ。Sさんは2014年のゴールデンウィーク、奥秩父の雲取山に2泊3日で登る途中で遭難した。

 初日の5月3日は予定通りの行程をこなして、午後3時ごろには小屋のある三条ノ湯に着いた。翌朝、飛龍山を経由して雲取山に向かうことに決めたSさんは、宿帳にもそう記してから7時ごろ小屋を出発。ちょっとした誤算だったのは、登山道にはまだ残雪があり、時折、道を見失いがちになることだった。それでも昼過ぎには飛龍山の山頂に到着、弁当を食べてから、下り始めたのだが――。

〈残雪上のトレースは不明瞭だったが、方向さえ間違わなければ、どこを下っていっても山頂をぐるりと回っている巻き道(*山頂を通らずに山腹を巻いて反対側に通じる迂回路)にぶつかるはずだった。途中、「ここは登るときに通ってきたな」という場所も一カ所あったので、あまり深く考えずに下っていった。ところが、いくら下っても巻き道にはぶつからず、いつしか残雪は消え、クマザサの藪となっていた〉(羽根田治『山岳遭難の教訓』)

 下りていくことおよそ1時間、さすがに「これはおかしい」と感じ、一瞬戻ることを考えたものの、結局、Sさんはクマザサをかき分けながら下り続け、午後3時すぎにササ藪の中にちょっとしたスペースを見つけ、そこでビバーク(*緊急避難的な野営のこと)することを決めた。あたりの倒木にはクマが爪を研いだ跡があり、いかにもクマが出入りしそうな穴があったため、夕方になると木を叩いて音を出し、ラジオを流した。