1987年正月、北アルプス・槍ヶ岳登頂をめざした3人の男性、三枝悦男(さえぐさえつお、仮名・30歳)、宮崎聡司(みやざきさとし、28歳)、橋本正法(はしもとまさのり、25歳)が行方不明になった。
猛吹雪の中、彼らはどこに消えたのか。聞き集めた他パーティの証言から三人の軌跡を追い、推理を重ねていく山仲間と家族は、苦悩のうちに、やがて大きな謎に直面する――。
ここでは、捜索に関わった当事者・泉康子氏の著書『いまだ下山せず! 増補改訂版』(宝島社文庫)より一部を抜粋して紹介する。(全3回の3回目/最初から読む)
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のらくろパーティと同じコースをともにした山岳会への聞き取り
山から還らぬ3人とコースをともにしたと思われる他の山岳会のメンバーは、それぞれの街で、もう勤めに出ていた。夜8時、その下山パーティのメンバーたちが、勤めを終えて戻りはじめる時間である。
松田と私は、昼間用意したリストを手分けして、まず、のらくろパーティと同じ計画で槍をめざし、槍の1つ手前の西岳で停滞を余儀なくされたという情報を得ていた4パーティから聞き取りをはじめることにした。
晴れた日の夜は、澄んで冷え込んだ。松田は駅前、私は八千代館の斜め前にある公衆電話にしゃがみこんだ。総会が終わると、三枝桂子も加わった。
西岳で停滞したのは、名古屋大学山岳部(名古屋)、京都大学山歩(さんぽ)会(京都)、ブロッケン山の会(神奈川)、藤沢山岳会(神奈川)の4つのパーティである。
「どうも、このたびは、……がんばってください」
大学は冬休みが明けず、社会人山岳会は、新年会とか、下山後今度はスキーに出かけて不在という返事が返ってきたり、ようやく探しあてた連絡先が名目会長のところだったりして、はじめのうちは、“下山日”と“……らしい”という話しかつかめなかった。しかし留守宅の奥さんに電話が通じて、のらくろ岳友会を名のると、
「どうも、このたびは、……がんばってください」という言葉が返ってきた。ありがたい心遣いであった。が同時に、“のらくろ岳友会”の名が、違い関西や関東の各地を駆け巡りはじめた、おおいがたい遭難の反響の大きさを実感した。
年末年始山行の実行者をつかまえることができたのは、夜9時である。私たちは質問を、“のらくろパーティとの接点と天候”にしぼった。藤沢山岳会との電話口から、
「あなた方のパーティは、12月31日の悪天のなかで行動できるほど実力のあるパーティですか?」という質問が聞こえてきて、縮みあがった。
ブロッケン山の会の伊藤は、帰宅後、ことづけを聞いて、八千代館に電話を入れ、つぎのように答えてくれた。



