「のらくろらしい人とは会っていません」聞き取りで得た“証言”

「合戦尾根の中間地点にある第2ベンチ(この尾根道には1時間ほど歩くたびに休憩用のベンチがあり、第2ベンチは2行程目にある休憩地)で、12月28日夕方、ジュラルミン製のポールで支えられたエスパーステントを見ました。

 12月30日の夜から、槍の手前の西岳に停滞したのは、京大山歩会と名大山岳部、藤沢山岳会の4パーティだけで、のらくろらしい人とは会っていません」

 総会を終え、明日の準備のために散りはじめた会議室に私は駆けこみ、この情報をみんなに伝えた。

ADVERTISEMENT

「合戦尾根の第2ベンチのところに、エスパーステントがあったんだって」

 そこへ松田が、名古屋大山岳部からの聞き取りを終えて帰ってきた。彼女の報告を簡潔にまとめれば、つぎのようになっていた。

 名大山岳部は24日に中房温泉から入山停滞。26日から30日朝まで大天井ヒュッテで停滞。30日夜から1月1日までヒュッテ西岳で停滞。1日に東鎌尾根に降りて停滞。2日槍ヶ岳に登頂。3日に下山。

 そのなかでのポイントは、つぎのようだった。

(1)30日、名大は西岳手前の赤岩岳で、2、3のパーティに追いつかれた。

(2)槍登頂の翌3日、大喰岳は通ったが、単独行者には会わなかった。

 私と松田の報告を聞いたのらくろ捜索隊は、地図を囲んで口々に予想をたてた。30分後、ほぼまとまったのはつぎの点である。

「3人が睡眠中に酸欠でおかしくなったのか、誰かが体調を崩したのか?」

 赤岩岳で、名大パーティに追いついた2、3のパーティのなかに、のらくろパーティがいたとしたら、赤岩岳のつぎにある西岳の手前のどの地点かで転げたか、停滞したことになる。細い尾根道で停滞したとは考えにくい。

 ヒュッテ西岳の停滞パーティのなかにはのらくろはいなかったのだから、西岳方向には足を踏み入れていないのではないか。──合戦尾根の第2ベンチに、のらくろが28日夜いたとしたら、29、30日の足跡がほしい。

写真はイメージです ©アフロ

 行きついたこれらの疑問を晴らすため、夜10時、京大山歩会に電話を入れた。もし第二べンチのある合戦尾根が捜索のポイントということになれば、明日行動をおこす責任者宮下が、直接様子を聞き取ったほうがよいとうながされて、受話器を握ったのだった。

 京大山歩会からもたらされたのは、28日夕方合戦尾根の中間地点にある合戦小屋の前と、29日午前合戦尾根を登りきったところにある燕山荘の前に、エスパーステントがあったという情報だった。消えた3人のテントの型はエスパースだったので、この情報を聞いたのらくろ捜索隊員の頭は、すっかり“エスパース=のらくろ”になってしまった。

 “28日夕方テントを張り、翌日前進させたが何かのアクシデントで前進できず、雪に埋め込まれたという想定が成立する。そして3人が睡眠中に酸欠でおかしくなったのか、誰かが体調を崩したのか?”