長年、山岳遭難の取材を続け、『山はおそろしい』『ドキュメント 道迷い遭難』『山岳遭難の傷痕』『生還』など数々の著作を手がけた羽根田治氏へのインタビューの直後、その取材をした伊藤秀倫氏は、札幌市内の「M」山である不思議な体験をしたという。

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 山岳遭難ルポの第一人者、羽根田治氏が自身の身に起きたこととして淡々とした口調で語った「山の怪異」には正直、戦慄した。詳しい内容は記事を読んでいただくとして、その衝撃はこの原稿を書きあげた直後にも妙な形で引きずった。

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〈「山の怪異」も「山の神秘」も結局は同じことの裏表なのかもしれない。人智を超えているからこそ、人は山に惹きつけられるのだろう。〉と原稿を結びながら、私の脳裏には羽根田氏の友人がテントの中で目撃したという“羽根田氏の上に座って何かをムシャムシャ喰う女”のイメージが浮かんできてしまったのだ。

「ヨシ」とわざと声を出しながらパソコンの電源を落として、時計を見ると17時半すぎ。ちょうど犬を夕方の散歩に連れ出す時間だった。待ちかねていたかのように立ち上がった犬にリードをつけて、いつものように近くの「M」山に向かう。

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登山口に立ち並ぶ200以上の観音像

 札幌市内にある「M」山は、気軽に登山ができる低山として市民に親しまれているが、登山口には四国八十八カ所にちなんで、もとは八十八体の観音像が建立され、今ではそれが二百像を超えており、夕方ともなるとちょっと異様な迫力を醸し出している。いつものように登山口を横目に足早に通り過ぎ、遊歩道を犬と歩く。

 遊歩道の終点付近、もうすぐ森を抜けるという場所に女の人が立っていた。全身黒っぽい格好で、こちらに背を向けたまま、俯いてじっとしている。スマホでもいじっているのかと気にもとめずに、その横をすり抜けるつもりで歩を進めようとすると、犬がピタリと止まった。3メートルほど先に立つ女の人を頭を下げて、下からのぞき見るようにじっと見ているが、尻尾が股の間に入ってしまっている。もともと野犬の母犬から生まれ、知らない人に対する警戒心が強い犬なので、それ自体は珍しいことではない。