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 土地整理とは、所有者が入り組んでいる状態から宅地化しやすいように区画整理をすること。とうぜんそれには大きな費用がかかるが、ちょうど1940年に予定されていた東京オリンピック(中止)に向けて馬事公苑が整備されることになった。その用地売却によって用賀の町の人々は区画整理を行う資金を捻出し、1944年までにそれを終えたのだ。

 用賀駅の北側の碁盤の目の街路は、そのときに整えられたものだ。また、ほぼ同時期には東京都心の外縁部に緑地を設けるという東京緑地計画により、用賀の広大な土地が取得されている。これが戦後になって改めて都市公園として整備され、いまでは砧公園になった。

 

 ちなみに、1940年頃から、かの東条英機が用賀に暮らしていたという。首相在任中はどれほど用賀に戻って来ていたのかはわからないが、戦後に自殺未遂事件を起こしたのも用賀の邸宅。具体的な場所でいうと、区画整理とは関係のない玉川通りと首都高が分かれる付近であった。

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「東京の歩み」を凝縮した町

 玉川通りや首都高、高速道路などが整備されたのは、戦後の経済成長期のことだ。最初は1964年の東京オリンピックに前後して玉川通りと東名高速道路が整備され、1971年には首都高渋谷線が用賀まで達する。

 もともと明治時代から用賀に乗り入れていた玉電、東急玉川線が1969年に一旦廃止。改めて1977年に新玉川線(現在の田園都市線)が開業し、用賀駅もこのときに復活する。この段階で、いまの用賀の町の形が定まった。そうしてそれから飛躍的に市街地化が進み、現在に続いている。

 高速道路に乗って東京に戻ってくるときに、否応なく立ちはだかる用賀という地。それは単なる東名から首都高に入る料金所の町というだけのことではない。

 戦前に始まる東京郊外の住宅地としての開発。1940年、幻の東京五輪の馬事公苑(実際に1964年・2021年のオリンピックで馬場馬術競技の会場になっている)と砧公園。都心から南西に延びてゆく高速道路のネットワーク。用賀は、そうした近代以降の東京の歩みがいわば凝縮された町といっていい。

 そんなことを思いながらハンドルを握れば、進む気配のない大渋滞も、少しは違う気分で乗り切れる……かもしれない。

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