用賀パーキングエリアの下を抜けてさらに進む。あれは…
市街地にせり出した用賀パーキングエリアの下を抜け、さらに進むとほどなく環八通りとの交差点。環八東名入口という交差点の名の通り、ここから東名・首都高に出入りできるという、交通量が極端に多い交差点だ。そしてこの交差点から北西側に広がっているのが、砧公園である。
砧公園の東、用賀駅の西、用賀パーキングエリアの北の一角は、まさに碁盤の目のように街路が整備された住宅地が広がる。どこまで行っても住宅地というのが世田谷の凄みであるが、ここまで整然としているエリアもあまりない。
高速道路の存在を横に置けば、広大な砧公園の目の前に整然とした住宅地、駅に近づけばほどよい規模の商業地があって、さらに北東側には馬事公苑もある。緑地と住宅と商業地のバランスが実にいい。
少し南に行けば二子玉川という巨大な町があるが、それより規模が小さいのがまた過ごしやすい。シンボルの世田谷ビジネススクエア以外には目立った高層ビルもなく、駅前から5分も歩けば閑静な住宅地というのは、まさに世田谷らしい世田谷の町といったところである。
“世田谷らしい世田谷の町”の誕生はじつはそれほど古くなく…
この用賀の町が今のような住宅地になったのは、それほど古いことではない。戦前、1932年に東京市に編入されて世田谷区に属するまでは、玉川村という村だった。
現在の国道246号に続く大山街道は江戸時代から大山詣の人たちで賑わっていたというから、それなりに往来はあったし集落もあったのだろう。ただ、いまのような市街地にはほど遠く、用賀と呼ばれる一帯のほとんどは田畑の広がる農村地帯だった。
それが、1930年代後半頃から状況が変わりはじめる。昭和に入って東京郊外の開発が進む中で、まだ宅地化には至っていなかった旧玉川村、すなわち用賀一帯で土地整理が行われる。