沢田研二との略奪婚、魔性の女と呼ばれて
このCMを演出した市川準は、監督を務めた映画『大阪物語』(1999年)で彼女と実の夫である沢田研二を売れない夫婦漫才師の役で起用している。プライベートをなかなか見せない沢田・田中夫妻だが、この映画でもともに役になりきり、しっぽをつかませなかった。ただ、家でお互いのことを「おとうちゃん」「おかあちゃん」と呼ぶのは、映画と同じらしい。
映画『火火』(2005年)公開時のインタビューでは、その制作の途中に足を骨折してしまい、動けないので、前を歩いていた沢田を「おとうちゃーん」と手招きしながら呼んだところ、彼がこっちに来てくれて生まれて初めてお姫様抱っこをしてもらったと、珍しく私生活でのエピソードを披露していた(『婦人公論』2005年2月7日号)。
沢田とは、『おしん』の前後に、『男はつらいよ 花も嵐も寅次郎』『カポネ大いに泣く』と映画であいついで共演し、さらに田中が歌手として初コンサートを行うに際して彼が音楽監督を務めたことなどから関係を深めていったとされる。
当時、沢田には妻子がいただけに、二人の仲はマスコミの格好の関心の的となり、田中は「魔性の女」などと書き立てられたりもした。だが、スキャンダラスに騒がれても、彼女がつぶされることはなく、沢田が前妻と離婚して2年後、1989年に結婚するにいたった。
数々の名演技は「本能的にです」
演出家の久世光彦(毎年恒例の「向田邦子新春シリーズ」を中心に多くのドラマで田中を起用した)は、彼女の演技について《田中裕子がある役をやるとき、たぶんたった一つ決めるのは、その女の〈歩幅〉みたいなものではないかと思う。これを実に大胆に、大雑把に決めてしまったら、あとはほとんど細かいこと、たとえば、〈内面〉などという曖昧で厄介なものには見向きもしない》と評したことがある(『週刊朝日』1988年1月22日号)。
それを裏づけるように田中自身、綿密に演技プランを立てるタイプではないと認めている。あるインタビューでは、役づくりするときは形から入っていくのか、それとも心情的につかもうとするのかと訊かれ、《本能的にです(笑)。思うんだけど、私ごときが想像しても、しきれないもののほうが多いわけですよ。現場に行ってみなきゃ分からないことが多いでしょう。(中略)現場のあるがままの雰囲気をどう感じ、どう楽しみ、どう利用するか、そこが勝負どこなんじゃないかな、女優としての》と答えている(『non・no』1983年4月20日号)。