今年1月、江戸幕府の最後の将軍・徳川慶喜の玄孫(やしゃご)である山岸美喜さんが、第5代当主として「絶家」することを発表し、大きな話題となりました。
120年以上続く名家の「墓じまい」とはいかなるものか。谷中霊園(東京都台東区)に眠る慶喜家の墓所は300坪もあるそうです。先代の遺志を継いで“家の問題”に取り組む山岸さんに、その苦労について聞きました。(全2回の2回目/最初から読む)
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――前回は、4代目当主だった慶朝さんの遺言によって、山岸さんが徳川慶喜家の5代目に指名されたところまで伺いました。徳川姓でなく、しかも女性の山岸さんが家督を継ぐことになったのは、異例ですよね。
山岸美喜さん(以下、山岸) 私は、なりたくて当主になったわけではないのです。慶喜家には存命中の親族が7人いますが、徳川姓の男子はおりません。慶朝叔父は、養子を取って継がせることも考えていませんでした。最終的に信頼できたのは身近にいた私しかおらず、看病を通じての信頼関係があり、私に全部託すという遺言を遺したのが全ての始まりです。
心ない言葉を投げかける人も
――ところが、ご親族をはじめ周囲の理解を得られなかったんですね。
山岸 徳川家と親藩松平家の一族の交流会である「葵交会(きこうかい)」や、旧幕臣のご子孫による「柳営会」という集まりがあり、他の徳川家の方々は現在も交流を続けていらっしゃいますが、慶朝叔父はそういうお付き合いを煩わしく感じていたため、ご縁が遠くなってしまっていました。自分の代で慶喜家を閉じる事も考えていたので、皆さまとは疎遠になっており、それが、私のやっていることの難しさに影響しているところはあるかも知れません。
慶朝叔父がお世話になった病院の事や、住んでいた家の片づけなど、全て責任を負って様々な作業をしている中、「山岸は当主という名前が欲しいんだろう」とか「遺産が欲しいからやってるんだろう」などと心ない言葉もあったりして、非常に傷つきもしました。お宝も埋蔵金も、ありはしないのに(泣)。
何より大好きだった叔父が亡くなって悲しかったところに、さらに悲しい思いもしました。理解を示してくれたのは、その後再会した叔父や母の従弟、井手純おじさまだけでした。「当主は美喜ちゃんだよ。僕たちは、美喜ちゃんを助けるべきだ」とおっしゃってくださったのは、とても嬉しかったです。