慶應3年10月15日、将軍・徳川慶喜がその前日に朝廷に上表した大政奉還が勅許された。西暦でいえばこの日は1867年11月10日、いまから150年前のきょうにあたる。慶喜の決断により、264年続いてきた江戸幕府は政権を朝廷に返上したのである。
大政奉還のアイデアは、もともと坂本龍馬が慶應3年6月9日(1867年7月10日。以下カッコ内の日付は西暦を示す)、長崎から京都に上る船中で土佐藩の参政・後藤象二郎に示した、いわゆる「船中八策」にもとづいている。その内容は、幕府が政権を朝廷に奉還し、憲法を制定して、議会を開設するという「公議政体案」であった。後藤はこれを土佐藩主・山内容堂(豊信)に進言し、藩論とする。折しも薩摩・長州両藩を中心に武力による倒幕運動が進められていたが、土佐藩はこれを回避するべく、幕府に大政奉還するよう働きかけ、公議政体体制をめざす立場をとったのである。
以後、後藤は各方面に根回しを進めた上、10月3日(10月29日)には、福岡藤次(孝弟)とともに幕府老中の板倉勝静(かつきよ)を訪ね、容堂の名による大政奉還の建白書を提出する。慶喜はこれを承けて、同13日(11月8日)、在京40藩の重臣を二条城に集め、大政奉還を諮問、翌14日には朝廷に上表するにいたったのである。同じく14日には、「討幕の密勅」(実際には形式の整わない「偽勅」であった)が薩摩・長州の両藩主に出されていた。だが、大政奉還の上表により、倒幕派は挙兵を断念せざるをえなくなる。
慶喜はこのあと新たな政権を樹立すべく、大名会議を開催しようとしたが、ほとんどの大名は去就に迷い、召集に応じなかった。この間、公卿の岩倉具視と薩摩藩の大久保利通ら倒幕派は巻き返しを期し、慶應3年12月9日(1868年1月3日)、王政復古のクーデターを実行、新政府を発足させることになる。