先代の葬儀から始まった苦労
――井手純さんは、慶喜の孫で96歳のときに『徳川おてんば姫』(東京キララ社)という本を出して話題になった井手久美子さんの息子さんですね。以前、文春オンラインにご登場いただきました。山岸さんのご苦労は、早くも慶朝さんの葬儀から始まったわけですか。
山岸 慶喜家の当主というのは、祭祀の継承者ということです。ところが「山岸美喜が喪主になるのはおかしい」などとも言われました。ですので、葬儀では葬儀責任者という名前にして、親族への配慮ということで私は末席に座り、挨拶もなしとさせていただきました。結局、喪主という立場は、葬儀会社との打ち合わせの席と支払いの時だけでした。
葬儀は質素なもので、参列者は10人ほどだったでしょうか。それも慶朝叔父の遺言に従ったのです。祖父の徳川慶光や、会津松平家から嫁いできた祖母・和子の葬儀は、上野寛永寺の輪王殿で行なわれ、1000人を超す参列者がありました。立派でしたけれど大変だったので、そうならないようにという叔父の思いやりだったと思います。そしてその後、叔父の遺骨は2018年4月に、都営谷中霊園にある、慶喜家の墓所に埋葬しました。
歴代将軍とは別の墓所
――慶喜家の墓所は、歴代将軍とは別なんですね。
山岸 15人の将軍のうち、家康公と慶喜だけが神道なのです。2代から14代の各将軍は、仏教なので寛永寺、増上寺、輪王寺に分かれて埋葬されております。慶喜は、家康公を大変尊敬していたこともありますが、明治天皇のご配慮で公爵を綬爵した事や大変信頼していた有栖川宮様との関係から、神道に改宗し、皇室にならい神式で葬儀を行なうように遺言を遺しました。
ですから徳川家の墓所は寛永寺の中ではなく、谷中墓地の中にあって、これまでずっと慶喜家が管理してきたのです。お墓は、一般の皇族と同じような円墳で、お参りも神道式に二礼二拍手一礼ですが、拍手の音を立てないと教えられていました。