なんとロッテが交流戦を前にして首位。しかも貯金10で交流戦を迎えるのは、ボビー・バレンタイン監督のもと日本一になった05年以来。そして吉井理人監督(58)は、そのバレンタイン監督率いるメッツでメジャー初勝利を上げていますから、何か不思議な繋がりを感じます。蛇足ながら、05年はソフトバンクとのプレーオフでロッテが優勝を決めた試合の実況をしていて、その瞬間、感極まり「おべでとう、ちばどってまりーんじゅ~(涙)」とボロボロになり、先輩にひどく叱られた思い出が……。今日は吉井監督のことを書きますね。

プロ初勝利を挙げた広畑敦也にウイニングボールを渡す吉井理人監督 ©時事通信社

競馬場の放送席にしばしば姿を見せていた現役時代

 私が吉井監督と一番多く会話を交わした場所は、なんと競馬場! ご存じかと思いますが、吉井監督は昔から大の競馬好き。実は95~97年のヤクルト在籍時代のオフ、東京・中山の競馬場のニッポン放送放送席に、しばしば姿を見せてくれたのです。一番はじめは、当時ドジャースで活躍していた野茂英雄さん(54)が「競馬を見てみたい」ということになり、2人でこられたのがきっかけ。以来、ほとんど一般のファンの目に止まることなく、のんびりと競馬を楽しめる放送席の雰囲気を気に入られた吉井監督は、競馬中継番組「日曜競馬ニッポン」のゲストとして、頻繁にご出演してくださったというわけ。

 近鉄時代も大阪球場で試合がある時は、すぐ近くのJRAの場外馬券売り場で馬券を購入していたと言いますし、「浪速のヨッさんの予想は当たりまっせ!」なんてジョークを飛ばしていらしたことも。特に自分が目を付けた馬の成長を見届けるのが吉井流で、「あの、ひ弱にみえた◯◯が、すっかりたくましくなりましたね」なんて、目を細めていらしたのを思い出します。

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 もうひとつ、吉井監督で忘れられないのは、ギターを演奏している姿。やはりヤクルト時代、ニッポン放送のオフ番組にゲストでお越しいただいた時のこと。本番まで、まだかなり時間があり、のんびりしていた吉井監督は、スタジオの隅に置いてあったフォークギターを抱えて静かに弾き始めたのです。歌ってはいらっしゃらなかったと思いますが、たしかビートルズのナンバーでした。楽譜もないのによくスラスラと弾けるなと思ったら、箕島高校時代にバンドを組んでいたんですね。メッツで活躍した時、地元ニューヨークの新聞が、ギターの代わりにホウキを持つ高校時代の吉井監督の写真を掲載して話題になったことも。

 そして、スタジオでギターを弾く吉井監督の姿は、どこかナイーブな雰囲気を醸し出していて、マウンドで闘志を燃やす時とは、まるで違っていました。

 そんなこともあって、現役時代の吉井監督はどこか浮世離れしていて、普通の(?)選手とは一線を画しているように見えたものでした。

夢を叶えるために行くのにお金は関係ない

 その最たる例は97年オフ、FAでメジャーに行った時の行動。巨人から、一説には2億円近いオファーがあったとも言われますが、これを断ってわずか2000万円ほどの年俸で海を渡ったんですからね。夢を叶えるために行くのにお金は関係ない……。まず条件ありきで行き先を選ぶのが当たり前の昨今ですが、この時の吉井監督の選択には、ただただ感動しました。はたまた当時は日本の投手がメジャーに行くとマウンドの硬さに悩まされていましたが、吉井監督にこのことを聞いたら、「マウンドが硬いのも含めてメジャーなんです。そのメジャーに行きたいんです」と答えられた……。ホントにカッコよかったなぁ。

 もちろんメジャーでただ夢を叶えただけでなく、吉井監督はその後の指導者としての人生に、向こうでの経験を生かしていらっしゃいます。特に上腕部などの故障に悩まされた時のリハビリ経験は、コーチ時代、大いに役立ったといいます。

 スーパーサラブレッドの能力を持ちながら、入団当初身体の出来上がっていなかった佐々木朗希投手(21)には打ってつけの指導者、ひ弱なポニーを育成する名伯楽だったのでしょう。

 メジャー顔負けの緻密なデータを存分に活用するのも吉井野球。球団スタッフによれば、チームのアナリストの皆さんの仕事量は、前任者に比べて格段に増えたといいます。試合のためのデータだけでなく、若手選手の筋肉量なども全て数値化して目標設定を見据えた上で練習メニューを作っているそうです。他球団でも、こうした手法を取り入れているところはあると思いますが、ロッテではそれが徹底されています。