土佐の自然児は生涯「好き」を貫いた――。作家の朝井まかて氏、牧野記念庭園学芸員の牧野一浡氏、国立科学博物館植物研究部陸上植物研究グループグループ長の田中伸幸氏が、牧野富太郎を語り合う鼎談「素顔の牧野富太郎」を一部転載します。(月刊「文藝春秋」2023年6月号より)
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牧野 NHKの朝ドラ「らんまん」の放送が始まって、牧野記念庭園にはありがたいことに1000人近い方がいらっしゃいますよ。
田中 1日に1000人ですか!? それはすごい。
牧野 これまで、平日の来園者は15人くらいでしたから飛躍的な増え方です。練馬・大泉学園の片隅のあの小さな庭園に、ですよ。
朝井 嬉しい悲鳴じゃないですか(笑)。
牧野 そうなんですけどね、朝ドラって本当にすごい……。朝井さんが5年ほど前に、富太郎をモデルにした小説(『ボタニカ』祥伝社)の取材のために来てくださった時なんかは、まさかこれほどまで知られるようになるとは思わなかったけれど。
朝井 そうですねえ。「日本植物学の父」と呼ばれるほどの功績を残しているのに、メジャーな人物ではなかったかもしれません。
田中 植物分類学という学問自体、地味ですからね。私の専門でもありますが(笑)。だから、牧野先生をモデルにした朝ドラをやると聞いた時には驚きました。
彼の生涯をたどるとなれば植物は欠かせませんが、花には季節がありますから時季を狙って撮影なんてとても無理だろう? と。
「故郷の香り」バイカオウレン
牧野 実際に「らんまん」の植物監修をされていかがですか。苦労されているという噂を耳にしていますが(笑)。
田中 いや、本当に大変ですよ。春夏のシーンを、1年のうち植物が最も少ない秋冬に撮影するので……。苦労話はキリがないのでまたあとにしましょうか。
牧野 気になるな(笑)。朝井さんは、いつごろから富太郎に興味があったのですか?
朝井 ものごころついた時から植物が大好きだったので、偉人伝も小学生のときに読んでいました。富さんが、自分を支え続けてくれた妻・壽衛(すえ)の名前から取って学名をつけた「スエコザサ」のエピソードには、「花やなくて笹? 地味!」とぶうたれてたくらい(笑)。
田中 ずいぶん大人びた小学生ですね(笑)。
朝井 彼は、幼い頃に抱いた“好き”を生涯貫きましたよね。植物への愛だけを胸に、小学校を辞めても独学で勉強を続け、東京大学の研究室への出入りを許される。土佐だけでなく、全国を飛び回って植物の採集を続ける。実家が傾き、大学を“クビ”になっても研究に邁進する——立身出世やお金には目もくれず、己が信じることにのみ忠実。小説家となった私には、それがいかに稀有な生き方であるかがわかりますし、まるで“物狂い”のような横顔もあって、その光と影も含めて惹かれたんです。
牧野 ドラマは、幼い富太郎が家のすぐ裏手の神社の境内で白い可憐な花を見つける場面から始まりましたね。
田中 小さな頃、土佐・佐川(さかわ)の野山を駆け回っていた富太郎の目に真っ先に入ってきたのは、あのバイカオウレンだったでしょう。春、ほかの植物が芽吹く前に真っ先に花を咲かすので目立ちますし、何より富太郎が大好きな花だったというエピソードが残っています。
〈私は生まれながらに草木が好きであった。(中略)五、六歳時分から町の上の山へ行き、草木を相手に遊ぶのが一番楽しかった。(中略)それ故に私は幼い時から草木が一番の親友であったのである〉(『牧野富太郎自叙伝』講談社学術文庫)
と回想しています。草木が友だったわけです。友達になるためには名前を知りたいですよね。こうした出会いが、目の前の植物を観察しそれが何なのか知ろうとする「分類」への好奇心を芽生えさせたのではないかと思います。
朝井 生家の裏の金峰神社のあたりに群生地があったようですね。亡くなる前、佐川からのお見舞いの方が持ってきたバイカオウレンの株を顔にすりつけ、「故郷の香りだ」と喜んだという話も残っていて、私も小説の冒頭でバイカオウレンとのやりとりを描きました。田中先生のお話をうかがって、今頃、ほっとしています(笑)。
今日は、一浡さんが覚えていらっしゃる富さんの姿も伺いたいですね。