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家のどこにいるのか知らなかった

 牧野 よく聞かれるのですが、おじいさんは私が10歳の頃に亡くなったので、あまり鮮明には覚えていないんです。それに、当時は自分の曾祖父がそんなに名の知られた人だとは思っていなかった。ただのおじいちゃんでした。むしろ、会社を定年退職後に学芸員の資格を取り、牧野富太郎の顕彰事業に携わるようになって初めて知ったことがたくさんあります。

 それに当時の記憶が薄いのも頷けるくらい、遊んでもらったことはほとんどなかったと思います。私は富太郎と同じように、幼い時に母を亡くし祖母に育てられたおばあちゃん子でした。祖母の鶴代は富太郎の次女で、身の回りの世話をしていましたから、私もおのずとひとつ屋根の下で暮らすことになったんです。

 思い出してみれば、病気だろうと何だろうといつも書斎にこもって、少しでも時間があれば図鑑の校正をしたり、書き物をしたり。夕食時に、「おじいちゃん、ごはんですよ」と呼びに行く時くらいしか言葉を交わしていなかった気がします。当時もう90前後で耳が遠くなってしまっていたのもあるかな。

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牧野氏 Ⓒ文藝春秋

 朝井 鶴代さんに「書斎に入ってはいけない」と言われていたんですよね。

 牧野 そうそう。だから、そんなに広い家でもなかったのに、晩年を過ごした家に引っ越すまでどの部屋にいるのか知らなかったくらいなんですよ。ただ、富太郎は人を楽しませることが好きでサービス精神旺盛な人だったそうで、私の父やその兄弟たちには植物のあれこれを教えていたみたいです。庭にザゼンソウの花が咲いたら、横で全身使ってものまねをしていたらしい(笑)。

 田中 座禅を組む姿に似ていることから名づけられた植物ですね。

 牧野 とにかく、いくつになっても研究をやめない、生涯研究者でした。

写真中央が牧野富太郎、左がひ孫の一浡氏(個人蔵)

 田中 幼き日のバイカオウレンとの出会いから始まり、富太郎は94年の生涯で多数の標本を採集しました。全国を廻って講演をしたり、「東京植物研究会」などを立ち上げてアマチュアの人々に指導をしたり、常に人に囲まれていた人生だったようですが、原点にあるのはやはり、自然に囲まれた佐川という土地と、孤独を癒してくれる草花との出会いだと思うんです。

 朝井 孤独、ですか?

 田中 はい。幼い頃に両親を亡くし、小学校の勉強に飽きて2年で自主退学した富太郎にはほとんど友人らしい友人もおらず、植物に囲まれ暮らしていました。子供向けに『小学二年生』という雑誌に書いたエッセイには、

〈そのころのわたくしは、おともだちもなく毎日山に行っては、木や草や花をつむのが何より楽しみでした〉(昭和26年7月)

 とあり、

〈朝夕に 草木を我の友とせば 心寂しき折節もなし〉

 という短歌まで残しています。私はこのように書くこと自体、寂しさの裏返しなのではないかと思えてなりません。

 牧野 なるほど。