大物ヤクザとして知られる田岡一雄氏は横浜で藤木幸太郎氏に荷役の仕事を教わっていたことがあったという。二人には知られざる物語が――。
幸太郎の長男で今も横浜のみならず全国の港湾を束ねる藤木幸夫氏(92)を描いた『ハマのドン』より一部抜粋。藤木幸太郎氏が田岡一雄氏にヤクザ引退を持ち掛けた瞬間をお届けする。(全2回の2回目/前編を読む)
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山口組三代目組長・田岡一雄氏と親交が深かった藤木幸太郎氏
藤木幸太郎氏と田岡一雄氏。その関係は、神戸で港湾事業を行っていた田岡氏が、幸太郎氏に荷役の仕事を教わりに来たつながりだ。
著書『ミナトのせがれ』にも、白土秀次著『ミナトのおやじ 藤木幸太郎伝』(藤木企業、1978年)にも、二人が港の仕事を通じて親交が厚かったことが言及されている。『ミナトのせがれ』にこうある。
戦後間もない昭和二三年の秋、山口組三代目の田岡一雄氏が私の親父を訪ねて来て、「船内荷役業について指導を受けたい」と言った。(略)「港には組員を一切寄せ付けない方針です。どうか仕込んでください」。
著書によると、幸太郎氏は熱心に指導したという。
親父は、「山口組の組員は一切近づけない」と約束した田岡のおじさんの言葉を信じたわけだが、大局的に言えばおそらく苦渋の決断だったろう。親父は「もう一人の田岡一雄」を受容れたつもりでも、世間は田岡のおじさんを「山口組三代目」としてしか見ない。
港で博打が行われていた時代についても公然と話す。
外国特派員協会の会見の席でのこと。藤木さんは、海外の記者に対してこんなエピソードを紹介した。
「男の集団には共通の娯楽がある。それは…」
「国土交通大臣になった前原さんが、私の部屋へすぐに来ました。横浜へ。その時に、彼が『ちょっと二人きりでお話をしたい』って言うんで、一日いたわけですけど、話をした。もじもじ、もじもじしてね。『何か聞いても怒りませんか』と言うんだ。怒りませんよと。聞いてください。あなたは大臣になったんだから、港のことは全部知ってなきゃいけない。『本当に怒らないですか』『怒らない』。何かと言うと、『港で働く人とこういう人とはどういう関係ですか』と。つまり、港とヤクザとはどういう関係かということを私にストレートで聞きたかったんですね」
民主党政権時代。国土交通大臣だった前原誠司氏が、「国際コンテナ戦略港湾」の選定にあたって、横浜港を視察した時の話だ。当時、日本の港はアジアのハブ港として釜山港や上海港などに出遅れたことから、国際競争力を高めようと、整備強化する港の選定が行われていた。