前原さんに聞かれた時にどう答えたのか、インタビューで聞いた。
「結局ヤクザもんと一緒に思ってたんだね。前原さんに、『あんた、よく聞いたね。偉いよ。男の集団というのはね、必ず共通の娯楽があると。これが丁半なんだと。だって、みんな新聞読むわけじゃない。テレビなんかあるわけじゃない。娯楽はお椀とサイコロなんだと。じゃないと人が集まらないんだと。固いこと言ってたんじゃ。そのかわりプロは入れてないんです』と。『今は博打をやったらその場でクビ。当時は絶対なしと言ったら、人が来なくなっちゃうんだから』。そんな話をしたもんだから、前原さんは、『分かりました』と」
この場に同席していた関係者に取材した。その人は、前原氏が藤木さんに失礼なことを聞いたのではないかと内心焦ったそうだが、藤木さんがその問いに真正面から答えたことにいたく感心していた。
港の博打とヤクザの賭博。藤木さんの父親の時代、港には仕事を求めて多くの人が集まってきた。
「港湾労働者だから日雇いもいるし、半分ヤクザで刺青してるのもいるし。『てめえ、この野郎』と喧嘩もしょっちゅうだった」
危険と隣り合わせの現場で、雨が降れば仕事にあぶれる不安定な生活。そんな中で、楽しみといえば、稼いだ日銭で遊ぶ、博打だった。
田岡一雄氏にもヤクザから足を洗わせようとしていた
「皆、出目をかけて遊んでるの。賃金だね。たまたま港で始まっただけのことでね。そこにヤクザのいわゆる賭博師が入って来て寺銭を取るようになって、ヤクザは成立したんだよね。縄張りってやつを作って」
幸太郎氏は博打を断ち切り、ヤクザとも縁を切った。
「うちの親父はすっかり博打の、いわゆる任侠道の人とは縁を切って、港湾運送一本にっていう、そういう人生の大きな転機があったんだよ」
そして、港の仕事にヤクザを入れないようにした。荷役をやりたいというヤクザには足を洗わせたという。