喧嘩ばかりやって高校は2回退学した。
3つめの高校でやっと卒業するが、不良たちと喧嘩に明け暮れた。肩に残る傷跡はこのころナイフで刺されたものだ。
梁の世代に課されていた3年間の兵役を終えたあとも、仲間たちと遊んで過ごしていた。
ある日、ソウルからドライブに行こうとだれかがいい出して、車を飛ばした。
釜山まで3時間で着いてしまった。
それ以上行きたくても道がなかった。
海に囲まれた自国はなんて狭い国なのだろうと感じながら、海を眺めていたら、友だちが「この先は日本だ」といった。
そうだ、だったらこの先の日本に行ってみるか。
小学生のころ、反日感情と反共感情がいまよりはるかに強く、教師が「日本人と共産党(北朝鮮)は頭に角が生えてるんだ」と教えていた。
家に走って帰ってその話をすると、母親が「国民学校に通ってたときは、先生たちはみんな日本人だったんだよ。貧しかったからお弁当を持ってこれる生徒はほとんどいなくて、日本人の担任の先生がじゃがいもとかを毎日のように買ってきてみんなに配ってくれたんだ。角が生えてる悪魔はそんなことしないでしょう」と教えてくれた。
生まれてはじめて勉強をする気になった
梁が東京に立ったのは29歳のときだった。
「最初はちょっとがっかりしましたね、韓国とあまり変わらなかったから。でも生活してみるとカルチャーショックがだんだんきました。例えば、白髪のおじいちゃんが革ジャン着てハーレーに乗ってたり、新宿ゴールデン街の狭い店で肩がぶつかり合いながら飲んでも喧嘩にならないとか。吉野家に1人できて、黙々と食べて帰っていくとか、そういうのがショックでした。韓国ではみんなで食べるから」
最初は日本語学校に入った。
卒業すると、次にどこかに進学しないとビザの更新ができないので、写真にはまったく興味はなかったが、どこでもいいからと、写真学校に入った。
カメラすら持っていなかった梁は、学校から借りて撮影した。
美術の先生が、「いまからクラシック音楽を聴いて5分たったら感じたものを外に出て撮ってきなさい」と指示を与えた。
梁が撮ったのは、道端の草だった。
「そういう教育を受けたことないから。そこからハマりました」
いままで勉強などしたこともなかったが、生まれてはじめて勉強をする気になった。
韓国にいるときよく一緒にいた仲間の1人が自殺した。その友だちの顔が見たくなり、写真を探してみたのだが1枚もなかった。それからだった。自分の周りを夢中で撮りはじめたのは。
好きなものをやっと見つけた。もっと勉強したいと東京工芸大学に入学し、写真を本格的に学んだ。
日本語学校時代、先生からは「歌舞伎町だけは決して行かないように」と釘をさされていた。
だがその言葉がかえって梁を刺激して、歌舞伎町に何度も足を運んだ。
好きになっていた歌舞伎町を撮りはじめたのは1998年からだった。