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「ミッチー・ブーム」はマスメディアが作り出した

 その最も大きな例が、現天皇・皇后の婚約から結婚に至る「ミッチー・ブーム」だろう。皇太子明仁親王と正田美智子さんとの婚約を国内で最初に報じたのは、新聞ではなく週刊誌だった。「週刊明星」1958年11月23日号には美智子さんの顔写真と名前などが掲載され、人々はそれによって彼女の名前を知ることになる。

「内定した!?皇太子妃 その人正田美智子さんの素顔」(「週刊明星」1958年11月23日号)

 その後、正式に婚約が発表された後、マスメディアは彼女の一挙手一投足を報じていった。人々は「恋愛結婚」と言われる二人の姿に、理想的な家庭像を見出してあこがれた。そうした国民の支持を受けた皇室の姿が、マスメディアを通じて形成され、定着していったのである。

「持ち上げられて落とされる」経験があったからこその平成皇室

 しかし、マスメディアは皇室に関する賞賛記事ばかりを量産していったわけではない。すでに「ミッチー・ブーム」の最中から、宮内庁の対応を「菊のカーテン」として批判していたが、その後、美智子妃が〈雲の上へ上がってしまった〉という記事も登場してくる(例えば、「週刊現代」1960年10月2日号など)。

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1962年10月、フィリピンご訪問前に談笑する皇太子ご一家 宮内庁提供

 こうした「美智子妃は国民にとって身近な存在ではなくなった」という記事に端を発して、ブームは終焉する。そのなかで、皇太子夫妻は自分たちの存在や皇室のあり方を模索していき、現在の「平成流」の原型が生まれていった。皇太子明仁親王・美智子妃がマスメディアに持ち上げられ、そして落とされる経験があったからこそ、今の皇室があると言っても過言ではないかもしれない。