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樋口教育長から自筆の手紙が届く

 樋口はじっと聞いていたが、おだやかに口を開いた。

「息子さんを亡くされたあとのお気持ちは痛いほどわかります。ただ、知事に会わせてくれとおっしゃっても、結局は教育長の私のところに話はまわってくるんです。知事は最高責任者だが直接責任者ではない。そこのところをぜひ理解していただきたいと思います」

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 三重は再び口を開いた。

「お役所の世界では決して事故原因に向かわないと聞きました。事故にかかわった人を担当からはずすというやり方で対応なさろうとしていらっしゃるのではありませんか。息子はちゃんと講師の指示に従っていた。しかし一瞬のうちに雪に埋まって死んでしまいました。その事故の原因を、真正面から検討していただかなくては、息子は浮かばれません」

「どうでしょう。いろいろ考えて、私の精一杯の気持ちを手紙に書いて送らせてもらいますから」

 と樋口が約束し、その日の会見は終わった。

 12月初旬、樋口教育長自筆の手紙が三重あてに届いた。県庁を訪ねてから1週間後のことであった。原因は自然災害だからどうにもならないと結論されていた。今後の対策として約束できるのは、当時の講師を当分の間使わないこととしたためられていた。誠実な言葉遣いではあったが、三重が奇しくも会見の日に口にした「官僚世界は事故があっても原因の検討に向かわず、人を代えることで幕」の構図が穏便な言葉に包まれて並んでいた。

泣き暮らすことをお終しまいにするための“山の勉強”

 12月25日、弁護士事務所を訪ねた三重と西牧岳哉(編注:亡くなった酒井教諭の友人)に向かって、中島は身を乗り出し、開口一番言った。

「この際、考えを変えて、訴訟に持っていったらどうでしょう。あのあとずっと考えて、教育長からの手紙も読みました。この分だと、知事への公開質問状を出しても、ただ申しわけなかったで済んでしまう懸念がある。やっぱり訴訟でキッチリと責任を問わなければ、彼らの体質は崩せない」

 そこで茶を一口すすり、中島は続けた。

「僕は、山はズブの素人だ。訴訟、たしかに大変なことだ。だがそうなったら、みんなで山の勉強をしましょう」

 三重の頭のなかで、“山の勉強”が残響した。信州に育ちながら、自宅を出た道から朝夕ながめている常念岳にさえ登ったことがなかった。泣き暮らすことをお終しまいにするために“山の勉強”。一瞬「私に出来るかナ」と不安がよぎったが、そこにしか道が残されていないならばやり抜こうという心が、まっすぐに立ってきた。