師匠・杉本昌隆八段との絆
場所を代えての記者会見で、藤井新名人は順調に質問をこなしていたが、「師匠の杉本昌隆八段になんと伝えたいですか」に固まった。そして30秒以上考え込んでから、こう答えた。
「師匠とC級1組で同じクラスだったとき、師匠が昇級して、自分が届かなかったことがあったんですけど、50代で昇級することはたいへん素晴らしいことだと思いますし、その師匠の姿を見て、来期頑張ろうという気持ちになったので、そういう師匠の姿を見ることができたのが、今につながっているのかなあと感じます」
藤井の言葉を聞きながら、私は杉本との思い出が頭に浮かんだ。
まだ藤井が奨励会にいて、杉本の一番弟子が年齢制限で退会したとき、「藤井が棋士にならなければ二度と弟子は取りません!」と私に言ったこと。そして弟子を置き去りにして昇級したことを「あのときはさすがに気まずかったですね」と苦笑いしたこと。最初のタイトル戦である棋聖戦の控室に、杉本の師匠の板谷進九段の写真を持ってきて祈るように対局室のモニターを見ていたこと。イベントの控室で、「将棋で教えられることは何もないから、藤井の成長の妨げをしないのが私の役目です」とキッパリと言ったこと。私が杉本に「タイトル戦でもずっとあなたの扇子を使っていましたよ」と言ったときの杉本の嬉しそうな顔。いろいろなことを思い出していたら急に涙腺が緩んだ。
藤井さん、そこでそんな話をするんじゃないよ。たぶん師匠も泣いているよ。
名人として初めての揮毫は「温故知新」
江戸時代、名人は「家元」であり世襲制で、その後に推挙制となった。実力制で初めて名人となったのは木村義雄十四世名人だ。木村は1937年、名人になる前に、関西将棋界の大家・阪田三吉と「南禅寺の決戦」と呼ばれる有名な対局をしている。持ち時間30時間、7日間をかけて戦ったものだ。結果は木村が快勝し、翌年には名人となった。
その後、阪田のひ孫弟子にあたる谷川が関西出身棋士初の名人となった。一方の木村門下からは、花村元司九段や板谷四郎九段がA級棋士となる。花村門下では、森下卓九段と深浦康市九段がA級に。花村と森下は師弟そろって名人戦の挑戦者となった。板谷門下でも板谷進九段、私の師匠の石田和雄九段、杉本の兄弟子の小林健二九段がA級の舞台で戦った。しかし誰も名人には届かなかった。ついに木村の系統図から名人が生まれたのだ。
翌日、藤井新名人として初めての揮毫は「温故知新」だった。
角換わりの4八金-2九飛型は、実は木村が後手番で編み出したものだ。また相掛かりでの雁木は「木村不敗の陣立」と呼ばれた。4八金2九飛型をもっとも得意とし、名人戦で5局中3局を雁木にした藤井が名人になる。まさに温故知新だ。歴史的な1日とは、それで終わる1日ではない。これから歴史が作られるのだ。
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