2020年6月4日は棋聖戦挑戦者決定戦が行われた日だった。私は観戦記者の席に座り、17歳の青年が特別対局室の下座に座るのを見ていた。段位は七段で、順位戦のクラスはB級2組。世間は史上最年少挑戦かと騒がしかったが、私はまだ永瀬拓矢(当時二冠)に勝つのは無理だろうと思っていた。
長い持ち時間ではいまだタイトルホルダーに勝ったことがなかったし、永瀬は叡王戦七番勝負を4連勝、王座戦五番勝負も3連勝と、どちらもストレート勝ちでタイトルを奪って絶好調だったからだ。ところが彼は不利になるも、絶妙の手順でひっくり返してしまった。取材ノートを読み返してみると、「驚いたことに逆転した」「永瀬が苦しがっている」「彼の動きが止まった。読みきったか」「92手目、△8六桂の初王手」などとメモしている。
インタビューを終えた後の写真を見る。顔にはあどけなさが残るが、笑顔は今と同じだ。使っていた扇子は、穴があいてボロボロになっている。
彼は3年後、名人戦の舞台で、同じ92手目に同じ手を指す。
鍛えの入った精神力を持つ渡辺にとってすら…
渡辺明名人に藤井聡太竜王が挑戦する第81期名人戦七番勝負第5局は、5月31日~6月1日にかけて、長野県上高井郡高山村「緑霞山宿 藤井荘」で行われた。標高800メートル以上、200年以上の歴史ある旅館だ。
藤井は、数年前にこの藤井荘の方から手紙をもらったことをきっかけに、家族で長野電鉄に乗って泊まりにきたことがあるそうだ。長野電鉄の話になったとき、私に見せた藤井の明るい表情は印象に残っている。
名人戦はここまで渡辺の1勝3敗。七番勝負のカド番を先手でしのぐのか。あるいは挑戦者の藤井が史上最年少で名人を奪取するのか。将棋界はもちろん、社会的にも非常に大きな注目を集める一局となった。世相は「藤井持ち」を隠さない。鍛えの入った精神力を持つ渡辺にとってすら、圧力のかかる対局だろう。
注目の戦型、渡辺の飛車先保留型角換わりの出だしに対し、藤井が角道を止めたところまでは第3局と同じ。
中継のコメントで「藤井が角換わりを拒否した」という書かれ方をしているが、これは正確とは言えない。拒否したのは「飛車先保留型」であって、普通の角換わりを拒否しているわけではない。むしろ渡辺が、拒否するように誘導したのだ。