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 薄い囲いで盤面全体が戦場になる野戦を避け、互いにガッチリ囲って囲いを崩し合う攻城戦に持ち込む、これが今回の名人戦全体の渡辺のテーマだった。渡辺は第2局では矢倉にしたが、本局では7七に桂を跳ねて「菊水矢倉」に組んだ。相矢倉戦において、対雀刺しや対棒銀などで用いられる、古くからある囲いだ。だが、藤井は公式戦で菊水矢倉に組んだことはなく、対戦相手に組まれたこともほとんどない。

 感想戦終了後に藤井に聞いたところ、菊水矢倉と腰掛け銀の組み合わせは予想していなかったという。序盤は作戦負けになったと思ったそうだ。

 藤井は間合いを計ってから仕掛け、互いに銀桂が駒台にのっていったんは収める。渡辺は右桂を跳ね、攻撃態勢を整えて1日目を終えた。

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1日目はあくびをするなど、めずらしく疲れている様子だった

 2日目、藤井は寝技を使った。封じ手は△9五歩。端を突き捨て、敵の囲いとは反対側に銀を打つ。逆サイドに銀を打つのは羽生善治九段の好む手で、このシリーズ、藤井は羽生の得意技を何度も使っている。

 その日、私は早朝に家を出て、新幹線と長野電鉄を乗り継いで須坂駅に行き、タクシーに乗った。「藤井荘まで」と言うと、年配の運転手さんに「名人戦の取材? 私は将棋はわかんないですが、藤井さんってすごいねえ。若くてあんだけ勝っていたら普通は天狗になって生意気になるのに、勝っても驕らず、実に謙虚で礼儀が良い。将棋のプロってみんなそうなの?」と聞かれ、私もプロ棋士なんですとは名乗れなかった。いろいろとハードルが高くなっている……。

長野県上高井郡高山村の「緑霞山宿 藤井荘」 ©文藝春秋

 11時前に控室に到着。和服がわからない私でも、モニター越しでも、2人の着物の素晴らしさがわかる。藤井の着物、どこかでじかに見たことがあるなと思った。自宅に戻って過去の記事を調べてみたら、2021年の豊島将之叡王との叡王戦五番勝負第5局と同じだった。つまり、藤井が叡王を奪取して三冠王になったときの着物だ。

 さて、さっそく副立会の戸辺誠七段と高見泰地七段との検討に加わる。逆方向への銀打ちについて、「銀打ちは粘りにいっている手ですよね」と高見が言えば、戸辺も「もたれていって、間違えたらというほうがいいんですかね」と同意する。

 対局者の様子について聞くと、「渡辺さんはいつもとまったく同じ自然体でした。まったく変わらない。追い込まれているのにさすがですよね」と戸辺。対照的なのは藤井だ。観戦記者や記録係の田中大貴三段、齋藤光寿三段にたずねると、1日目はあくびをするなど、めずらしく疲れている様子だったという。

「藤井さんは流石にお疲れのようでした。叡王戦第4局がすごかったですからね」(戸辺)

 本局の3日前、5月28日に藤井が防衛を果たした菅井竜也八段との第8期叡王戦五番勝負のことだ。1日で2回の千日手指し直し、つまり3局指している。