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 私たちはよく忘れる生き物ですが、本当にそれは人間の脳が力不足だからなのでしょうか? むしろ脳は情報の取捨選択をし、重率を設定して、直近の演算に必要な情報だけをすぐ取り出せるようにしてあるのではないかと考えられるのです。つまり、計算が重くならないよう、どんどん忘れるようにできているのではないかということです。たとえば電話番号にしても、現代では携帯端末に記憶させているので、自分で覚えておく重要性が低くなり、思い出しにくくなっているといえます。

 災害や戦争の記憶は、それを回避するという意味では非常に重要なわけですが、それでも薄れていくのは、回避的な態度を優先させ過ぎると、スムースな意思決定ができないなどといった不利益が生じてしまうためです。

「記憶する」ことを機械に実装させるのは簡単です。しかし、「都合よく忘れる」をプログラミングするには、やり取りする相手、その内容、文脈などを綿密に計算しなければなりませんから実装は困難です。私たちの脳には、その精密な機構があり、そのおかげで、都合のいい情報だけ上手に記憶に残してあとは忘れるという、実に複雑で高度なことを自然にできているのです。

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『週刊文春WOMAN』2023 創刊4周年記念号に掲載されています。

 ただし、取捨選択の結果記憶に残ったことでも、時にそれが書き換わってしまうこともあります。結婚相手と出会う前、別の人とデートした思い出のカフェなのに、いつの間にか妻と行ったことになっていた、なんていうことはありませんか。「私、そんなお店には行ったことないけど」という妻とは、ちょっと揉めてしまうことになるかもしれませんね。

 要するに、生きていくためには記憶なんてそんなに重要なものではないんです。ですから、自分の記憶力がよくないと嘆くことはありません。私が言うまでもないことですが、電話の内容は覚えようとするよりも、メモを取る、録音するなどしたほうが確実です。

 長塚圭史さんは戦争や原爆を繰り返し演劇のテーマにしています。いま47歳でいらっしゃるので、実際に体験されたわけではありませんが、目を逸らしてはならない、伝えていきたいという強い信念をお持ちです。覚えておこうという挑戦には限界がありますから、できるだけ記録に残し、大切な時にはその記憶を呼び覚ましてその時代の現実に活かせるよう、また後世に伝えていけるよう力を尽くしていきたいですね。

text: Atsuko Komine illustrations: Ayumi Itakura

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