「共依存」の母たちの言葉には主語がない
私はBさんに「共依存のグループカウンセリング(KG)」に参加することを勧めた。
夫と次男をめぐる関係の力学を少しでも自覚してほしいと思ったからだ。そのためには彼女から次男に対する関係のもち方を「共依存」と名づける必要があった。私なりの解読に自信があったからではなく、次男がBさんの呪縛から逃れなければこのまま彼は40代を迎えるだろうと思ったからだ。
一度も会ったことはないが、30歳の次男が虚しい「脱出」を繰り返しながら年齢を経ていくことを見過ごす気にはなれなかった。そうしてこう思った。次男はカウンセリングにはやってこないだろう。「脱出」の失敗をどこかで予期しながら、それでも成功する秘訣をカウンセリングで学ばせようとする母親の善意のもつ残酷さを、彼は熟知しているはずだから、と。
KGでは「あなたがやっていることは息子さんのためにと言いながら、自分の思いどおりに息子さんを操作することになっていませんか」「そんなコントロールをやめないかぎり、息子さんの変化は生まれないと思います」というメッセージを、具体的な出来事に即して伝えていく。
参加する母たちの語る言葉の特徴は、主語がないことだ。「冷蔵庫の中のアイスクリームを食べちゃいまして、怒るもんですから逃げたんですけど……」といった具合にだ。主語の喪失は、彼女たちKGの参加者が、家族に対して自分を二の次にすることで、主体的関与を捨てていることを示すかに思える。
しかし注意深く聞けば、主体的関与を捨てた自己(私を捨てた私)は、隠れた主体として厳然とそこに存在していることがわかる。「私」を捨てたふりをすることで彼女たちは責任を免れることができる。主体という柱を失うことで他者に堂々と寄りかかることができる。
共依存の特徴は、このよりかかる他者が必ず自分より弱者であることだ。強者であれば単なる依存に過ぎない。依存されることで弱者の主体はもっと薄弱になり、強者に飲み込まれていくだろう。よりかかりつつ飲み込むために、共依存は弱者を選ぶのだ。捨てたかにみえて隠された主体は、巧妙に弱者である対象を操作する。
共依存は、弱者を救う、弱者を助けるという人間としての正しさを隠れ蓑にした支配である。多くは愛情と混同され(支配される弱者も愛情と思わされ)、だからこそ共依存の対象はその関係から逃れられなくなる。そんな支配性を解体する第一歩が「私」という主語を復活させることである。隠された主体ではなく、「私は」と他者に向かって語ることで、明白に意識化・顕在化された主体が復活するのだ。
次男が脱出すべきなのは「国」ではなく…
Bさんはその後どうなったのだろう。