KGに参加することを決めたのだが、電話がかかり、夫がポリープの手術をするので参加できないという理由を告げて来なくなった。有料のカウンセリング機関は、来所を強制することはできない。来所するクライエントの自発性を尊重する以上、Bさんのその後を知ることはできない。私というカウンセラーの方針がどこか不十分だったのか、彼女が自分の求めるものを与えられないと判断したのか、それもよくわからないままだ。
あくまでも私の想像だが、共依存という言葉を知ることでBさんの家族を支えている均衡がどこかで崩れると直感したのではないだろうか。そのようなクライエントは珍しくない。介入を目的とするKGは、いわば家族の外科手術のようなものだ。変化を生むためには行動パターンを変えなければならない。今までやらなかったことをやるか、今までやってきたことをやめるか、そのいずれかである。Bさんはそれを恐れたのだろう。
もっと推測を深めるなら、次男への共依存を自覚することで家族の起源である夫との関係にまで洞察が深まることを恐れたのかもしれない。それは夫から激しいDVを受けていたことや、育児から逃げてまったく協力してくれなかったことの想起につながるだろう。理由もわからず腰を蹴られる口惜しさ、首が少しだけ曲がってしまっていることの理由、逃げたくても逃げることのできない育児の重圧などを、Bさんは過去のことだと水に流したつもりでいたに違いない。
Bさんが来なくなった理由が推測どおりだとすれば、彼女は変化を恐れたのだ。
DVを受けながら、経済的理由から結婚生活を捨てることもできない女性は多い。逃げ場のない孤立した状況の中で、Bさんは一生懸命子どもを育て、夫からの無視と暴力に耐えて生きてきたのだ。次男のためにすべてを賭ける今の生活はその結果得られた意味と目的に満ちた生活なのだ。共依存の自覚は、息子のために耐えてきた人生をくつがえしてしまうだろう。共依存という言葉はひとりの人生の意味を転換させてしまうほどの力をもっているのだ。
私は再び次男のことを思った。彼は今後どうなるのだろう。Bさんが生きているかぎり、母を殴りながら母の希望であり続けるのだろうか。それはずっと「脱出」を繰り返すことを意味する。メキシコの次はどの国を選ぶのだろうか。
おそらく会うことはないだろうが、もし目の前にクライエントとして次男が現れたらこう言いたい。「もうおわかりのことと思いますが、あなたが『脱出』すべきなのは日本ではなく、あの家とお母さんではないでしょうか」