息子の挫折により救済される母
Bさんの話を聞いた私は、次男はもっと別のことを考えているのではないかと思った。おそらく彼は母親の言うとおりの「脱出」を望んではいないだろう。とうてい不可能な目標を設定すれば、それが実現できなくても責められることはない。だから電車で2駅離れた町のアパートに脱出するのではなく、遠い異国の、それも農村地帯に移住することを「脱出」と定義したのだ。その目標を掲げているかぎり、母は満足するだろう。なぜなら、いつまでも自分のやりたいことをあきらめず、それに向かって努力をし続ける息子でいられるからだ。
母から認められ母を満足させる以外に、次男は存在理由をもてなかった。ずっと父から殴られてきた母を守るために、幼いころからずっと母の苦情の聞き役であった。それはおそらく現在も変わらないだろう。母の最大の理解者は自分であるという確信ほど、子どもを縛るものはない。そこから逃れようとすると途方もない罪悪感が湧いてくるからだ。こうして「脱出」という不可能な目標を掲げて挫折を繰り返しながら、次男は母の与えた存在理由から逃れられずにいるのだ。
いっぽうBさんは次男を自立させて日本から「脱出」させるという夢によってどこか救済されているようだ。息子のために尽くす母親は社会から立派な母としての称号を与えられている。それは彼女にとって、誰からも責められることのない防御壁として機能する。ましてその息子が引きこもりであれば、Bさんは誰よりも不幸な母として同情されこそすれ、ねたまれたり批判されたりすることはない。こうして不幸な母という符丁と引き換えに、Bさんは世間を味方につけたのである。
夫は自分より腕力が強く肉体的な強者である息子を恐れているので、「あんな男と結婚してごめんなさい」とあやまることで息子を味方に引き入れ、BさんはDVをふるった夫よりはるかに優位に立つことができる。息子と自分だけの「おかゆ」「脱出」という合言葉は日々その意味を確認されることで、一種の教義と化しているようだ。そこに夫の入り込む隙などない。
Bさんはなぜ帰りのフライトチケット代を次男に渡したのだろう。そこには「脱出」が失敗して戻ってくることがすでに前提とされている。一見やさしげな「だめだったらいつでも帰ってきてもいいのよ」という言葉は、実は「どうせ失敗するだろうからまた戻っていらっしゃい」というメッセージとも読みとれる。次男が本当に「脱出」してメキシコに住むことになったらBさんはどうなるだろう。なんの共感も共通言語もない寂寞とした夫婦ふたりの生活が待っているだけだ。
それに、引きこもりを克服して海外で暮らす息子をもつ母へとステップアップしたBさんは、同情されず時にはねたまれたりするだろう。世間の目は厳しくなるだけだ。だからBさんにとっては、次男がまるでギリシャ神話に出てくるシジュフォスのように、「脱出」と挫折を繰り返すことが必要だったのだ。しかしこんなことをBさんが自覚していたわけではないだろう。彼女は心より「息子のために」と思っていたに違いない。