今、公文書を軽視する風潮がひろがっている。
「まったくの捏造」――今年3月、高市早苗経済安全保障担当大臣が国会の質疑で、総務省の公文書をこのように批判して波紋を呼んだ。
この公文書は、高市氏が総務大臣だった安倍晋三首相の時代に総務省が作成したものだが、官邸が特定の民放番組を問題視し、総務省と解釈を巡る協議を重ねた経緯を詳しく記録していた。文書自体は単なる「記録」であり、あとから捏造された可能性は考えにくい。
にもかかわらず、高市氏は「これが捏造でないなら議員辞職する」とまで強弁し、国会は大荒れとなった。
公文書が軽視されたのは、これが初めてではない。
昨年10月には、日本中を震撼させた「神戸連続児童殺傷事件」(1997年)の記録を神戸家庭裁判所が廃棄していたことが発覚。この他にも重要な事件の裁判記録が多数廃棄されており、最高裁が異例の謝罪に追い込まれた。
また、安倍晋三政権下では「森友学園問題」や「加計問題」、さらには「桜を見る会」をめぐっても、公文書の改ざんや破棄がおこなわれていたことが発覚している。
こうした事態を受けて、福田康夫元首相が「文藝春秋」に登場し、退任後初めてまとめて公文書軽視の風潮を批判した。福田氏は「公文書は『国家の証し』そのものである」としたうえで、近年の政治家の「権力の用い方」に大きな問題があると指摘し、警鐘を鳴らしている。
公文書は「国家の証し」そのもの
福田政権(2007年~2008年)の頃、福田氏は公文書管理の強化に力を注ぎ、法整備に尽力してきた。そんな福田氏は今回の高市発言を以下のように厳しく批判した。
〈まず最初に強調しておきたいのは、公文書は「国家の証し」そのものである、ということです。わが日本国がどのように成り立ち、国家の仕組みや制度がどんなふうに出来上がってきたのかを証明する大切な証拠なのです。私は若い頃、アメリカの公文書館が膨大な文書を保管し、きちんと公開していることを目の当たりにし、大きな衝撃を受けました。民主主義国家の底力を見た思いがしました。そこで、私が官房長官と総理大臣の頃、公文書管理法の制定に道筋をつけたのです。