怪我が重症でないときの「少し危険な賭け」
ところで、選手のコンディションについて「張り」や「違和感」などの言葉を耳にしたことのある人は多いのではないでしょうか。あいまいな感じがするワードですが、このような表現が使われるのには理由があります。試合中、アクシデントに見舞われて、怪我をしてしまった私のケースを検証してみましょう。
審判がプレーを一時中断すると、怪我をした私は一度ベンチ裏に引っ込み、すぐさまトレーナーが状態をチェックします。痛みで顔をしかめる私とトレーナーが、手当てをしたら試合に戻れるのか、それとも無理だから交代するのかなどと、一問一答を繰り返し、トレーナーが判断した意見を参考にして、最終的に監督がどうするのかを決断します。
なんとかプレーを続行できそうであれば、テーピングなどの簡易的な処置の後、グラウンドに戻ります。しかし、グラウンドに戻れずに交代するとなると、徐々に雲行きが怪しくなっていきます。
怪我の症状があまりにも酷い肉離れや骨折の場合、かなり高い確率で選手登録が抹消されてしまいます。ご存知のとおり、登録抹消されたら10日間は一軍に上がれません。私が抹消を察知してしまったら、ベッドで横たわったまま、タオルで顔を覆い隠してしまうでしょう。どうにも受け入れ難い現実を突きつけられ、頭が真っ白になり、何も考えられなくなります。
そうこうしてるうちに「抹消」というワードがそこらで飛び交い、トレーナーやマネージャーたちは試合どころではなくなって、バタバタ慌ただしく動き回りだします。明日からの試合、私の代わりを誰にするのか、二軍から誰か呼び寄せるのかを決めなければなりません。二軍監督がオンタイムでテレビ観戦していたりすれば、すぐさまマネージャーに電話が入ったりなんかして……。CMで目にするセキュリティ会社よりも早いくらいのスピードで情報を嗅ぎつけます。
しかし、幸いにも重症に至らず、抹消が確実ではない場合、私は非常に悩ましい状況に追いやられます。怪我の具合をトレーナーにどう説明したらいいのか、自分でも整理できなくて悩んでしまうのです。
抹消という事態は絶対に避けたい。2、3日の猶予がもらえるなら試合出場ができるまで回復するのかと自問自答し、ほんの少しでも希望の光が残っているのなら……。そうした場合のみ、少し危険な賭けに出ます。
現状ではいくら野球のできる体ではないとしても、「痛い」とか「痛み」といったワードは決して口にしないと心がけるのです。嘘だとしても、その場だけは「痛み」ではなく「張り」というワードをチョイスして説明します。
すると、その日はアイシングで患部を冷やしつつ様子を見て、次の日にあらためてトレーナーに怪我の状態を報告する運びとなります。多少自分の体と向き合える時間が作れますし、時には嘘みたいに痛みが引いて回復することもあります。
怪我をした日が週末なら、私とトレーナーとの一連のやり取りの後に、監督から「休み明けの火曜から試合に出られるようにしとけ!」なんて言ってもらえたりします。そういうときは休日の月曜日に“駆け込み寺”を必死にハシゴして、なんとか回復できれば、私の目論見通り登録抹消されずに済み、一軍にいられることになります。
安易に口にしてしまいがちな「痛い」というワードですが、人から人へ伝達されると重症度が自分の知らないところで勝手に増していき、気付いたときには登録抹消へと導かれてしまう可能性があります。酷い怪我の場合は正直に申告しなければいけませんが、軽症の場合、「痛い」という言葉は慎重に扱わなければいけません。
私は「痛い」ではなく、「張り」というグレーゾーンのワードを使用していました。これは私が何度も怪我をして、長い年月をかけて培って学んだことです。こうして「張り」という言葉がみなさんの耳に届くことになります。すべては試合に出たい、その一念から生まれる表現なのです。
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