東南アジアの“アヘン王国”から未承認国家ソマリランドまで、アクセス困難な辺境地をディープに取材してきた稀代のノンフィクション作家・高野秀行さん。最新刊『イラク水滸伝』は、イラク南部に広がる巨大湿地帯の謎に挑んだ、世界的にみても画期的な一冊だ。古代シュメール人の生活文化を温存した湿地民の知恵とは?
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豪傑たちが集まって政府軍と戦う『水滸伝』を彷彿させる湿地帯
――これまで世界各地の辺境地に挑んできた高野さんですが、今回なぜイラクだったのでしょうか。
高野 ティグリス・ユーフラテス川の合流地点に広がるイラクの巨大湿地帯に関しては、イギリスの探検家セシジャーが1950年代に旅をした『湿原のアラブ人』という本で、ずいぶん前から知っていました。ただ、フセイン政権によって湿地帯は壊滅状態になったと漠然と聞いていたので、とくにそれ以上の興味を持っていませんでした。
ところが2017年1月、朝日新聞の「砂漠の国 文明育んだ湿地」と題した記事で、アラブ人が水上を小舟で行き交い、水牛が泳いでいる写真を見てびっくりしたんです。とっくに失われたと思っていた湿地帯が復活し、水の民が今も暮らしていることに。早速記事を書いた記者に連絡をとって、2日後には会って話を聞いていましたね。
アラブ人といえば砂漠の民なのに、この古代メソポタミア文明発祥の地では、水の民が水牛を飼い、舟で移動し、生活している。しかも戦車や軍隊が入れない湿地帯は、昔から権力に抗うアウトローや戦争に負けた者、迫害されたマイノリティが逃げ込む非常にユニークな場所でした。
――さながら『水滸伝』状態なわけですね!?
高野 そう、まさに豪傑たちが湿地帯に集まって政府軍と戦った『水滸伝』を彷彿とさせる地です。世界史上には、ベトナム戦争時のメコンデルタ、ルーマニアのドナウデルタなど、こうしたアナーキーで、レジスタンス的な湿地帯がいくつも存在します。
さらに調べてみると、90年代のフセインの破壊以降、この湿地帯〈アフワール〉についてのまとまった一般的な報告は世界的に見てもなにもない。ものすごく面白そうだなと思い、イラク行きを決意しました。
――でも今から5、6年前だと、まだイラクの治安がかなり悪かった頃ですよね。
高野 当時は爆弾テロが頻発していて、拉致事件もよく起きていましたから、イラク国内の街に外国人はほとんどいませんでした。グリーンゾーンという米軍が警備する特別なエリアに政府関係者やジャーナリストが滞在しているくらいで。
イラク人の保証人がいないとビザがとれなくて入国にすごく苦労しましたし、現に滞在先のある場所ではほんの2週間違いで爆弾テロが起きました。現地の宿泊先の友人のお兄さんが強盗団に襲われる事件もあって大騒ぎでしたし。市内で普通の民家に泊まって地元の食堂でご飯を食べている外国人は僕らくらいでしたね。