読み進めていくうちに、本書の主人公ヘンクへの思い入れが増していく。56歳、バツイチで一人暮らしのヘンクと自分には、共通項がないのに、だ。
7月、猛暑の朝、ヘンクは目覚める。飼い犬スフルクとの散歩途中、調子を崩したスフルクが、道端の草の上に伏せて動かなくなってしまう。その時、突然、ヘンクは見知らぬ女性から声をかけられる。(犬の)喉が渇いているのかも、と。女性が持って来てくれた水をスフルクが飲む横で、ヘンクはその女性を魅力的に思う自分に気づく。
帰宅後、ヘンクは姪のローザに電話をかける。ローザの誕生日だからだ。電話に出たのはローザではなく弟のフレークで、ヘンクはその夜、フレークの家で行われるバーベキューに誘われる。
チーズを買いに出かけたヘンクは、その足でローザへの誕生日プレゼントを買いに本屋へ。弟宅へと持参する上等なワインも買い、ついでに、かつての同僚であったマーイケのためにシェリー酒も購入。彼女が入所しているナーシングホームに行き、差し入れる。
帰宅したヘンクは、スフルクの具合がよくなっていないことに気づき、動物病院へと連れて行く。スフルクは心不全と診断される。心臓がよくなることはないけれど、「まだしばらく時間はあります。何ヵ月か、もしかしたらもっと長いかも……」
物語にはヘンクの1日が淡々と綴られていく。もう若くはなく、やや太り気味。常識人である弟から、一方的に心配されている(余計なお世話だ、とヘンクは感じている)、どこにでもいるような、中年男、それがヘンクだ。けれど、そんな彼の“内側”を、作者は彼が通過してきた過去を織り交ぜながら、丁寧に、重層的に描いていく。
かつては愛し合った妻との、別れに至るまでのお互いの心の軌跡。亡くなった上の兄、ヤンの破滅的な生き方。認知症を発症し、今はナーシングホームにいるマーイケとの関係。生後8週で迎えたスフルクと過ごしてきた日々。何よりも、読書に対するヘンクの考察がいい。彼が感じる読書に没入することへの不安と恍惚(こうこつ)は、活字中毒者だからこそのもので、言葉に力がある。
彼の人生に突然現れたミア(朝の散歩の時に、スフルクに水を持って来てくれた)に心を傾けていくヘンクの、ティーンエイジャーのような初々しさは、どこか可愛らしくさえある。
それらを読んでいくうちに、ヘンクの表情までもが、生き生きと読み手の胸に刻まれていく。見知らぬ中年男、だったはずのヘンクが、まるで身近な知り合いででもあるかのように、輪郭が際立ってくる。
読み終えて気づく。ヘンクは私であり、あなたでもありえるのだ、と。読み手にそう思わせる普遍的な力が、本書にはある。読書の喜びが、ここにある。
Sander Kollaard/1961年、オランダ・アムステルフェーン市生まれ。アムステルダム自由大学で歴史学を専攻。2014年『あなたの愛する人の瞬時の帰還』でファン・デル・ホーフト賞を、20年本作でリブリス文学賞を受賞。
よしだのぶこ/1961年、青森県生まれ。書評家。法政大学文学部卒。「本の雑誌」の編集者を経てフリー。著書に『恋愛のススメ』。