著者コニェッティはミラノ生まれの都会っ子(といっても40代半ばだが)ながら、子どもの頃、家族の別荘がわりの山小屋を足場に、父に引っ張られるようにして4000メートル級のモンテ・ローザに挑戦するような日々を過ごした。しかし、10代の後半になると、父の山への執着に反発し、登山からも山小屋からも遠ざかってしまう。
父の死後、苦い記憶に揺り動かされながら書きあげたのが代表作『帰れない山』である。イタリア文学界最高峰のストレーガ賞を受賞した同作は、映画化され、カンヌ国際映画祭審査員賞に輝いた。溜め息の出るような山の映像と、主演のルカ・マリネッリが実に素晴らしい(公開中)。
しかしコニェッティの作家人生が、順風満帆だったわけではない。最新作である本書『狼の幸せ』は、フィクションとして再構成されてはいるが、実体験に基づいているようだ。
主人公は書きあぐねている小説家。環境を変えようと山あいのレストランでコックとして働いている。スキー場の圧雪車の運転手である常連の男や、レストランを経営する訳あり風のマダムにも認められ、ひとまわり以上若いアルバイトの女性シルヴィアに急接近してゆく。ミラノで10年ほどともに暮らしたパートナーとは離別することになる。
この山のレストランを軸に、孤独を抱えた人びとがお互いを少しずつ知りながら、どこか不器用に支え合う姿。それぞれの視点で描かれる短い断章が連なっているので、テンポのいい映画を見ているような気持ちになる。
シルヴィアと一夜をともにする場面はあっけなく進行するわりに、なまめかしい。率直だが、しつこくない。手をかけた料理のように緻密な文章の『帰れない山』とは違い、ザクザク切ってサッと炒めた味わいといえばいいか。
この調理法が人物の造形にくっきりした印象を残す。しばらくシャンプーしていない髪、おが屑や森の香りのする肌。心理や駆け引きより、匂いを嗅ぎ、キスをするのが目的のようなふたりの生態が新鮮な光景として映る。
描かれるのは生ばかりではない。登山客の転落事故死。落石による常連客の大怪我。目を背けたくなる場面も、グラッパのように透明で、強い。
夏になるとシルヴィアはレストランを離れ、標高3585メートルの山小屋で働きはじめる。本好きの彼女は彼に、葛飾北斎の画集『富嶽三十六景』を贈る。これが、この小説を生む契機になる。ものの見方、描き方を彼は北斎から学ぶのである。コロナ禍に書き上げた小説誕生の秘密を、惜しげもなく明かす作者の人懐こい笑顔が目に浮かぶ。
イタリアンアルプスの狼のように神出鬼没、自由であることを願う小説家の幸せとは何か。久しぶりに風通しのいい小説を読んだ。
Paolo Cognetti/1978年イタリア・ミラノ生まれ。2004年、作家デビュー。16年に発表した初の本格長編小説『帰れない山』がストレーガ賞受賞、ベストセラーに。ほかに、エッセイ『フォンターネ 山小屋の生活』など。
まついえまさし/1958年、東京都生まれ。小説家。2013年、小説『火山のふもとで』で読売文学賞受賞。他に『光の犬』など。