登山に詳しくない人には無名の登山家、永田東一郎氏の物語。中学時代に登山に出会い、都立上野高校山岳部、1978年東京大学進学後は東大スキー山岳部に所属。86年春に卒業するまでに、谷川連峰の赤谷川ドウドウセンを初踏破し、南硫黄島探検にも参加。84年、カラコルムK7初登頂の際には、弱冠25歳の登攀(とうはん)隊長として5人の隊員を率いた。
本書の著者は永田氏の高校山岳部の後輩だ。北海道大学山岳部で登山を続け、一般企業勤務を経て新聞記者になった後もなお、建築士となった永田氏と交流したが、著者34歳、永田氏36歳の1995年を最後に、疎遠になった。
それから10年後の2005年、永田氏は他界する。長く海外勤務の続いた著者がその事実を知ったのは、12年後だった。
享年46。死因は、酒の飲み過ぎ。そう聞いた著者は、飲めば朝まで飲み続けた永田氏の破滅型の性格を思い起こし、彼の物語を書かざるを得ないと心に決める。
山岳部の先輩、同期、後輩、親類、昔の友人、元妻などに綿密に取材した本書は、山を知らない人の胸にも響く。70年代から80年代に青春期を過ごした人なら、永田氏という特異な人物が吸っていたのと同じ、楽観的で自由な時代の空気を思い起すことができるだろう。
永田氏は特段体力に恵まれていたわけではないが、泥臭い突破力があった。墜落死の危機を経験しても萎縮しない。酒を飲めばしつこく、ケンカもするが、山に関しては非常に緻密な人だった。しかし学業では留年に次ぐ留年。恋人もなかった。そんな25歳が、未踏峰のK7初登頂に成功した。偉業である。
彼はそこに何を見たのか。
――普通の頂上だった――。登頂日に記録したひと言だ。これを機に、永田氏は山をやめてしまう。
頂上を極めたときに自分に訪れるべき変化が何もなかった。社会人になるまでの執行猶予期間に命をかけて求めたものが、ただ虚しい。そう見極めた青春の終わりは哀しみに満ちている。
卒業後、建築事務所を転々とし、3年後の89年には独立するも、建築需要の低迷とともに仕事はなくなる。理論は語るが細かい実務に疎く、人付き合いも嫌い。酒にのめり込んでせっかく得た家庭を顧みず、借りた金で安酒を延々と飲む。
急性膵炎、肝硬変、食道静脈瘤破裂。貸した金の返済を迫ることもなく身体のことを心配する友人には大丈夫だと言い、金の無心を断った後輩に怒ることもなかった。彼は好かれていた。
46歳。その死を緩慢なる自殺と見る昔の仲間もいた。早すぎた晩年の酩酊の朦朧の中で、永田氏は何を見ていたのか。永田氏の4年後輩にあたる私(本稿の筆者)も同じ時代の空気を吸った。バブル期の遥か前、自由で少し恥ずかしく、どこか哀しい時期。本書を読んで、私は今、あの頃の匂いを思い出している。
ふじわらあきお/1961年、福島県生まれ、東京育ち。86年、北海道大工学部卒業後、住友金属鉱山に入社。89年、毎日新聞記者に転じる。2005年、『絵はがきにされた少年』で開高健ノンフィクション賞を受賞。著書に『ぶらっとヒマラヤ』など。
おおたけさとし/1963年、東京都生まれ。『酒とつまみ』初代編集長。著書に『ずぶ六の四季』『酔っぱらいに贈る言葉』など。