「仲間(カンパニー)に数え入れられることのない無数の食客たちが、いつも自分たちの傍らで生を営んでい」る。そのことを私たちはいつしか忘れてしまったのだ、と著者は言う。
本書は、食客を題材に、ロラン・バルト、ブリア=サヴァラン、シャルル・フーリエ、ルキアノス、キケロ、シュミット、ディオゲネス、九鬼周造、北大路魯山人、石原吉郎などを召喚し、共生の哲学ではなく「寄生の哲学」ともいうべき思索の旅へと誘う。
誰かと共に生きるのは煩わしくもある。「絶対的な孤独感」にも「極端な一体感」にも振り切れずにいかにして理想的な生を見出せるか。著者は、共生とは達成すべき理想ではなく、おのれがあらかじめ巻き込まれている所与の現実であることを論じていく。そのために傍らに常にあり、敵や友といったかたちで認識される他者とは異なる、不可視の存在として「食客」に光をあてるのだ。
とても共感的に読んだ。文化人類学者である私は、本書が解き明かす目論見よりも通俗的な意味での「食客」、すなわち「居候(いそうろう)」という立場をよく経験する。参与観察のため、異なる地域に出かけて他者の家や職場に入り込み、半年、1年と暮らし、必要な情報を得る。「寄生」は私にとって仕事である。その際、宿主に対して、食事や寝床の提供を受ける代わりに彼らの興味をひく話を披露したりもする。ルキアノスを引いて著者が論じるように、トポスとしての「口」には食事と言葉の交換という隠されたエコノミーがあり、そこにはある種の食客術がある。敵ではないが、同じ共同体の成員にもなれない食客は、「ここ」と「よそ」の境界を絶えず踏み越え、おのれの拠って立つ立場を変容させつつ、それでも他者としての輪郭を維持するなにかだ。
だが「寄生」とは一方から他方への非対称な関係で成り立っているのだろうか。翻って考えると、私たちの生は動植物をふくめ、おのれ以外の別の生命なくして成り立たない。ただ、食べつくしてしまっては宿主を殺してしまうので、人間以外の存在物を含む他者への寄生には、「“わたしは世界を甘噛みし、わたしは世界に甘噛みされている”」といった、一方が他方の容赦なき捕食関係にはならない複雑な配慮に満ちた「口唇(こうしん)的な」存在形態がある。著者は、そのような存在論的口唇論が偶然的な邂逅によって生まれる、まずもって味わうべき美的(エステティック)な経験であることを、九鬼の造語「味会(みかい)」を通じて紐解いてみせる。私たちはおのれの輪郭と躯(からだ)を、素晴らしい書や画に触れて育つことで才能を開花させるといったように、身の回りの存在物からも形づくっている。その意味で私たちは例外なく、なにものかの食客なのだと。
寄生の哲学。それは、好むと好まざるとにかかわらず既に実現している、おのれをつくり、おのれの領域を侵犯する他者との共生のかたちを鮮やかに浮かび上がらせる。
ほしのふとし/1983年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。現在、東京大学大学院総合文化研究科准教授。専攻は美学、表象文化論。著書に『崇高の修辞学』『美学のプラクティス』『崇高のリミナリティ』等、訳書に『崇高の分析論』がある。
おがわさやか/1978年生まれ。立命館大学教授。著書に『都市を生きぬくための狡知』『チョンキンマンションのボスは知っている』等。