大竹さんは飲兵衛以外の何者でもない。ただの飲んだくれである。ここで言う「ただの飲んだくれ」とは、アルコールを摂取さえできれば、それで満足という酒精にどっぷり漬かっている人間のことである。かつてあたしは大竹さんの書籍のあとがきに、「彼は酒飲みではなく、酒飲まれである」と書いた。本人がその言い回しを気に入ったのか、他でも使っていた。
確かに大竹さんの酒の飲み方は、尋常ではなかった。しかし大竹さんはいわゆる飲兵衛顔をした人間ではない。飲兵衛顔、分っていただけるであろうか? 毎晩赤提灯に出没する、酒焼けした顔に「酒が命」と書かれているようなオヤジである。
ところが大竹さんは、たまに飲み屋に顔を出し、静かに折り目正しい飲み方をしている人間にしか見えない。まず飲兵衛の上に「大」がつくような人間であると、他人に見破られることはない。それというのも、他人様が何気なく本人を見た時、容姿も酒を飲む所作も常識的であるからであろう。市井の人間が市井の飲み屋で静かに酒を嗜んでいる姿である――としか言いようがない。
今回『ずぶ六の四季』を読んで驚かされたのは、そこにあるのは前掲の市井の人間が品行方正に酒を嗜んでいる姿、そうした大竹さんなのである。文体もきれいなのである。己の飲み方を上手くまとめ、酒と肴の嗜好を上手く書き著わし紹介している。それがまた決して押しつけがましくないのである。はたまた飲み方が変わったのか? あたしはどうしたことかと、読み進めていった。
大竹さんのかつての飲み方には常軌を逸したものがあったのだが、それが見当たらない。それを感じさせない――実は常軌を逸しているのだが、それを見せないようにしているのか? ところがページをめくるごとに、常軌は逸していないのだが、飲むこと飲むことやはりただ者ではない。
あとがきに〈読み返してみて、若い頃のような「バカ飲み」はしていないことに気づきました〉とある。しかしその後に、〈毎日、毎日、休むことなく飲んでいる〉とあり、〈オレは酒が好きなんだなあ――。つくづく思いますよ〉と続く。やはりかなり飲んでいる。
『ずぶ六の四季』とは上手いタイトルを付けたものだ。しかしずぶ六とは、へべれけ状態のことだから、そうとも言えない。
とにかく大竹さんは、飲み続けている。大したものである。痛風なのにビールをあおり、タラの白子、モツ焼きを口にする。大丈夫なのかと心配をするが、あたしも同類であるからにして、大きなことは言えない。
この本、罪なのは読んでいると、酒が飲みたくなることだ。酒飲みの諸君、是非飲兵衛のバイブルである『ずぶ六の四季』を読みなさい。ああ~ダメだ、酒があたしを呼んでいる。
おおたけさとし/1963年東京生まれ。早大卒業後、出版社、広告代理店等を経てフリーライターに。2002年ミニコミ誌『酒とつまみ』を創刊。著書に『中央線で行く東京横断ホッピーマラソン』『酒呑まれ』『新幹線各駅停車こだま酒場紀行』等がある。
なぎらけんいち/1952年、東京生まれ。シンガーソングライター。著書に『関西フォークがやって来た!』『酒場のたわごと』等。