「携帯電話」をめぐる攻防
「何のことか分かりますか」
リーダー格と思しき査察官にそう聞かれた 。
「いえ、分かりません」
「増川遵さんの脱税には、西川さんが協力していた可能性がある。関係先の査察です」
「証拠でもあるんですか」
「それを調べるために来ました」
「どうぞ、好きなだけ見てください」
警察や検察と違って、国税に逮捕されることはない。俺は、自分の家から証拠の類が出ない自信はあったが、問題は携帯だ。初期化してデータは消したが、復元されてしまう可能性は残されている。
すでに俺の携帯は真っ先に押収され、証拠品として紙袋に入れられている。俺は一計を案じた。まず、押収されていない妻の携帯電話を自分のズボンのポケットに隠し入れた。
「捜査には協力しますけど、今日、旅行に行く予定が入っとるもんで、キャンセルしたいからちょっとだけ電話を貸してもらえませんか」
その日、旅行の予定があったのは本当だった。共犯者のジュンとその家族、そして不正レースにおける携帯電話の調達役だったHらとともに、鳥羽や伊勢志摩を旅行する予定だった。だが、もはや旅行どころの話ではない。
国税の査察官は携帯を渡すことを渋った。
「いえ、これは証拠品なので」
「それならいいですけど、これは任意の捜査でしょ。キャンセルできなくて、かかる費用をそちらで払ってもらえるんですか」
「それは……」
そのやりとりを見ていた別の職員が、こう言った。
「キャンセルの電話だけさせてやれ」
自分の携帯を取り戻した俺は、旅行の宿泊先に電話をかけるフリをした。
「あれ、つながらんな……おかしいな……」
次の瞬間、俺は自分の携帯をズボンの内側に差し込むと、素早く妻の携帯とすり替えた。幸い、職員はその動きにまったく気づいていない。
「連絡終わりました」
俺は何食わぬ顔で妻の携帯を差し出すと、査察官は何も疑うことなく、携帯を同じ袋におさめ、封をした。
思いのほか簡単にすり替えが成功したが、これがバレるのは時間の問題だ。そもそも、妻本人も俺の工作に気づいていない。
「その携帯、いつ返してもらえるんですか。俺は逮捕されたわけでもないし、仕事もあるし、必要なんですよ」
「いつになるかは……」
「差し押さえる権利はあるんですか」
「裁判所からの許可をもらっています」
俺がしつこく携帯の早期返却を求めると、査察官はこう言った。
「今日、名古屋国税局まで来てもらって、データのコピーを待ってもらえるなら本日中に返却します」
俺は、国税局に同行することにした。
後から分かったことだが、この日の早朝同時刻、俺が「ジュン」と呼んでいた増川遵と、ジュンに投票用の口座を提供していた知人も国税に踏み込まれていた。