自身が出走するレースでわざと着順を落とし、高額配当を演出。そのレースの舟券を親戚経由で購入するという八百長事件……2020年1月8日、ボートレース界に大きな衝撃を与える事件が明るみに出た。

 ここでは、事件の中心人物であった元競艇選手西川昌希氏の手記『競艇と暴力団「八百長レーサー」の告白』(宝島SUGOI文庫)より一部を抜粋。身内に暴力団関係者がいる西川氏に向けられた「差別」や、「先輩の言うことは絶対」といった競艇界の慣習について紹介する。(全2回の2回目/前編を読む)

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デビュー前に書かされた「誓約書」

 2009年3月、俺はやまと競艇学校を卒業し、晴れて選手としてのデビューを迎えることになった。

 全国には群馬県・桐生競艇場から長崎県・大村競艇場まで24のレース場があり、新人選手は地元支部のレース場でデビューすることが通例となっている。

 俺の場合は、三重県の津競艇場がホームプールだった。競艇の発祥地とされているのは長崎県の大村競艇場だが、全国初の開催認可を受けたのはこの津競艇で、初開催は1952年7月とその歴史は全国の競艇場のなかでも最古級だ。

 デビュー前、忘れられないできごとがあった。俺は、育ての父であり、当時、刑務所に服役していた増川貴士や、暴力団関係者との付き合いをしないという「誓約書」を書かされた。同期のなかでも、こうした誓約書を書かされたのは俺だけだ。俺が競艇学校に入った後、津競艇場にこんなタレこみがあったという。

「西川の親戚は弘道会で、殺人事件を起こし逮捕されている」

「西川は高校時代、家庭裁判所から保護観察処分を受けるはずの非行少年だったが、競艇学校に人学したことで処分を免れている」

 狭い地元のこと、こうした話はすぐに広まる。俺の親戚がヤクザだったことを、競走会や津競艇の施行者は初めて知ったのだろう。デビュー前になって「黒い交際」に予防線を張ってきたというわけだ。

©AFLO

 だが、従兄がヤクザでも、それは俺の責任ではない。俺はその誓約書にサインしたが、育ての親との交流を禁じられるのは、一種の差別ではないかと感じたのも事実だ。その後、実際に俺は有形無形の差別を受けることになる。

 2009年5月1日、当時19歳だった俺はこの津競艇場の第1レースで デビューし、出走6艇のうちトップのスタートを切ったものの、道中で派手に転覆。波乱のスタートとなった。しかし、デビュー27戦目で初勝利(戸田競艇場)を飾り、水神祭(記念の勝利、節目の勝利を飾った選手を、水の中に投げ込んで祝う競艇界の慣習)を経験。そこから着実に成績を伸ばし、2014年には選手の実力を示す分類で最上位の「A1」クラスに昇格した。 

 2015年3月には、競艇の世界でもっともグレードの高いレース「SG」(ボートレースクラシック)に初出場し、あと一歩で優出(優勝者を決める最終レース)というところまで駒を進めている。