手打ちうどんはお好きですか?
私は自宅リビングのテーブルにボウルを置き、巨大な塊をこねくり回していた。小麦粉、水、塩を混ぜ、団子状に練り上げる。
つけっぱなしにしていたテレビでは、巨人対広島戦の中継が流れていた。巨人打線は3回まで毎回ランナーを得点圏に進めながら、得点を上げられない。
私は生地をこねながら、額からこぼれ落ちる汗をぬぐった。エアコンの設定室温を下げようとリモコンに手を伸ばしたところで、「その声」は聞こえてきた。
「毎日、気温や湿度によってうどんの質は変わってきます。出汁(だし)にしたって、材料の分量をちょっと変えただけで完全に味が変わってしまうんです」
うどんの繊細さを思い出した私は、室温を下げるのを思いとどまった。
うどん作り初心者の私にそれを教えてくれたのは、條辺剛さんだった。條辺さんは埼玉・上福岡駅近くで「讃岐うどん 條辺」を経営する、うどん職人である。創業15年を超える人気店で、その味を支持するリピーターが足繁く通っている。
味が安定するまで2~3年かかりました
條辺さんは元プロ野球選手で、現役時代は巨人の投手だった。中継ぎ投手として活躍した後、2005年に24歳という若さでユニホームを脱いだ。香川県の名店・中西うどんで修業を積み、今の店をオープンしている。
條辺さんのうどんはうまい。角が立った麺は噛むと心地よく歯を押し返してくる。いりこの旨みが効いた出汁をくぐらせて一気にすすると、しみじみと「あぁ、うまい」と言いたくなる。毎日でも食べたくなる味だ。
條辺さんのうどんの味を思い出していると、テレビから大きな音が聞こえてきた。レフトの秋広優人とセンターの丸佳浩が“お見合い”して、打者の森下暢仁が二塁ベースにたどり着いた。
さらに、西川龍馬が放ったレフト後方のフライに対して、秋広がたどたどしい足取りで後退する。左手のグラブを目いっぱい伸ばしたものの、ボールは無情にもその上を通り過ぎていく。巨人は4点を失い、試合中盤にして劣勢に立たされた。
秋広はまだ20歳。レギュラーを獲得して1年目の選手である。守備面で多少の粗はあっても、それを補って余りある打撃力、そして希望がある。秋広の一振りひと振りには、未来への希望が宿っているのだ。
私は再び、條辺さんの言葉を思い出していた。
「店を始めたばかりの頃は、毎日味にブレがあって、お客さんにも言われてましたよ。『昨日、遅くまで飲んでたでしょ?』って。味のブレが大きくて、お客さんが減った時期もありました。味が安定するようになるまで、2~3年かかりましたね」
この言葉を秋広が聞いたら、きっと胸に迫るものがあるに違いない。
手間をかければ、うどんはうまくなる
私は団子状にまとめた生地をビニール袋で包み、床に置いて素足で踏みしめた。「足踏み」という工程だ。生地を踏むことで、うどんにコシの強さが生まれる。
小学3年生の息子と代わる代わる、生地を踏みしめる。時には袋を開いて生地の様子を確かめるが、沼のようにヌチャヌチャした質感のままだ。「本当にこれでいいのか?」と不安がよぎる。
ふとテレビを眺めると、リリーフとしてマウンドに立った堀岡隼人がデビッドソンと末包昇大に相次いで本塁打を打たれていた。
せっかく素晴らしい剛速球を投げるのに、打ち込まれてしまう。そんな堀岡の姿に、育成の難しさを痛感せずにはいられない。堀岡だけでなく、今季の巨人は中継ぎ陣が不安定で若手もチャンスを生かしきれていない。
巨人ファンからすると、新星や救世主を求めたくなる状況だろうな……。そんな感想が浮かんだ私の脳裏に、また別の声が聞こえてきた。
「手間を省いたら、おいしいうどんは作れないよ。たくさん作るための作り置きなんて絶対にしない。手間をかけてしっかりと作れば、うまいうどんができあがるんだから」
声の主は、横山忠夫さん。東京・池袋で創業40年を超えるうどん店「手打うどん 立山」を営む大ベテランである。
今年73歳になった横山さんもまた、元巨人の投手だ。立教大からドラフト1位でプロ入りし、1975年には8勝という好成績を残している。
巨人OBのうどん店店主といえば條辺さんばかりがメディアに取り上げられるが、横山さんこそ「元祖」と言うべき先達なのだ。銀座の名店・木屋で修業を積みオープンした店は、多くのファンに愛されている。