《AKB48の中にいたら、周りは可愛い子だらけ。その中にエキゾチックな秋元がいる。その構図が、私にとってはすごくラッキーだった。私はたまたま身体的な特徴が他人と違うから、いい意味でも悪い意味でも浮いていたのだ。/周りの人とズレるそのなにかを、弱点として矯正するんじゃない。個性として伸ばしてあげればいいのだ。それはむしろ、ありがたいことなんだから》
母親がフィリピン人で父親は日本人というダブル(ハーフ)であることをデビュー当初より公言したのも、秋元の意思による。子供のときにはそれを理由にいじめられたこともあるため、オーディションの際には、娘への誹謗中傷を心配した母から「伏せておいたほうがいい」と言われた。
だが、彼女は《自分は何も悪いことをしていないのに、なぜ隠さなきゃいけないんだろう?》と思い、隠すことはしなかった(『婦人公論』2020年10月13日号)。そもそも芸能界を目指したのも、かつて個性的ゆえにいじめられた経験から、芸能界なら自分の個性を認めてもらえるだろうし、自分に自信が持てるはずだと思ったからだった。
こうしてキャプテンである秋元が率先して個性を前面に押し出したおかげもあって、チームKはAKBのなかでも個性派集団と呼ばれた。そんな彼女がグループからの卒業を決めたのは、25歳になろうとしていたときだった。俳優を目指すには27歳や28歳からでは少し遅すぎると思ったと、当時のインタビューで語っている(『月刊ENTAME』2013年10月号)。
秋元康事務所に「ひとりで乗り込み」
周囲のスタッフには、その1年ほど前からそろそろ卒業を考えていると話してはいたものの、なかなか総合プロデューサーの秋元康につないでもらえなかった。そこで、AKBの総監督だった高橋みなみに相談したところ「直接話したほうがいい」とアドバイスされ、秋元康事務所に自ら赴いて意思を伝えた。もっとも、あとで聞くと、ほかの人は食事をしながら話すのが普通らしく、「ひとりで乗り込んだの?」とみんなに笑われたという(『ありのまま。』)。そこがまた彼女らしいというべきか。
卒業セレモニーは東京ドームでのAKB48のコンサートで行った。東京ドームは、秋元が13歳ぐらいのとき、マイケル・ジャクソンのライブを観た思い出深い場所であった。そのとき彼女は英語はわからなかったが、環境破壊や戦争などへのメッセージを歌った楽曲「アース・ソング」を聴いて大号泣したという(『サイゾー』2018年4月号)。
秋元にとってはそれが生まれて初めて観たライブだった。父親が仕事の続かない人で、母親が女手ひとつで家計を支えていたため実家はいつも貧しかった。それでも両親ともに音楽が好きで、「本物をちゃんと観ろ」と、マイケルのライブに連れて行ってくれたという。そのときの感動を彼女は、《一人の人間がこんなに大勢の観客を魅了し、感動させることができるんだって衝撃で》とのちに語っている(『anan』2016年3月23日号)。