当時、横須賀港は日本海軍の中心地で、軍需産業や製造工業も発達していた。また、大陸などから小麦やそばが大量に入って来たのだろう。今でも横須賀一帯にはうどん・そば屋が多い。そんな背景から「船越食堂」は労働者の拠り所となっていた。当時から「船食(フナショク)」と愛称で呼ばれるようになり、それが正式名に採用されることになったという。
昭和の時代は製麺に注力
戦後から高度経済成長期にかけては製麺の需要が一気に増加した時期だった。近隣には海上自衛隊、東芝の関連工場、関東自動車などがあり、食堂などに麺を大量に卸すようになっていた。また、立ち食いそば屋などにも卸すようになり、先代(父)が事業を引き継ぎ、製麺に注力していった。昨年8月に廃業した横須賀市若松町の大衆そば屋「えびすや」にもその頃から麺を卸していた。製麺部門は「めん処船食」の前の道をさらに進んだすぐの左側で稼働している。
21世紀に入り、工場の移転などが相次ぎ、製麺の大口の需要は少なくなり、卸先も近隣の中華料理店や和食料理店、うどん専門店などにシフトしていった。その結果「(有)船食製麺」の麺は県南部の地域では広く浸透しているといってよいだろう。
京急逗子・葉山駅にある「浪子そば」にも長年卸していることは以前取材した通りである。そして、今では卸よりも「めん処船食」、つまり麺の小売り販売や食事コーナーのウエイトが増えているとか。年越しそば販売時には毎年大勢の常連客が行列を作るという。
朝は仕事の人たちが車で立ち寄ることが多く、昼になると近所の人たちや家族連れが食べに来たり、自転車に乗って麺を買いに来る。中には朝・昼・晩と1日3回食べに来てくれる常連さんもいるという。地域の人々に深く愛されている存在になっているわけである。
まさに「麺ひとすじ」と謳うだけの歴史があったわけである。
「食を制限する」仕事から「如何においしく作るか」へ
網倉女将が「船食」の仕事をするようになったのは今から25年程前のこと。それまでは管理栄養士として病院食の管理や指導の仕事をしていたという。
「どちらかというと食べるのを制限する方の仕事だったんですよ」