食料があるのになぜ人間を狙ったのか?
この事件の原因として常に指摘されるのは、ヒグマからキスリングを取り返したことで、ヒグマを怒らせてしまった、という点だ。
「確かにヒグマはいったん自分の収穫物と認識したものには強い執着心を示します。とくにメスはオスに比べて非常にしつこい」
こう語るのはヒグマによる獣害事件に詳しい南知床・ヒグマ情報センターの理事長・藤本靖氏だ。
「山に食料の乏しいこの時期のヒグマは、普通はハイマツの実を食べて秋までしのぎます。ところが加害グマは現場周辺にハイマツ帯があるにもかかわらず、最初からザックの中の人間の食糧を狙っています」
ここで思い出されるのは、前出の吉田氏の「(ヒグマは)まるで我々を“待っていた”」という証言である。
この言葉に藤本氏も頷く。
「事件より前、どこかのタイミングでこのクマは人間の食糧を口にし、相当いい思いを味わったはずです」
当時、ワンダーフォーゲルや登山がブームとなり、それまでなかったほど多くの人々が山に登るようになっていたが、人間の捨てた残飯やゴミがクマを引き寄せるということは、まだ知られていなかった。悲劇の種は、事件のはるか前に撒かれていたのかもしれない。
もしも被害者と逆の立場だったら
事件から50年後の2020年7月28日。筆者はカムイエクウチカウシ山を臨む札内川下流に立っていた。釣り人たちが竿を振るう流れは陽光と木々の緑を色鮮やかに映し、学生たちが憧れた「神秘の山」の片鱗をうかがわせた。そこに50年前の事件が落とす陰は見られないが、この山では昨年もヒグマによる襲撃事件が起きている。
その場に花と酒を供えながら、吉田氏への取材における、最後のやりとりがふと思い出された。
――もしも被害者たちと逆の立場だったら、と考えることはありましたか?
彼は、しばらく黙った後、こう答えた。
「幸運でした。ただそれだけですね」
事件後も北アルプスなどの山には何度か上ったという。だが北海道の山には、一度も上っていない。