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 顔も知らぬ「親分の愛人の男」という言葉だけが頭の中を反復していた。だが、他の組員たちは黙々と血を拭き取ったり、割れた陶器の掃除をしたりしている。それを見ていたら殺してはないんやと、ワシも組員たちと同じように掃除の一員に加わった。

焼ける臭い、あちらこちらに散った血液

 夥しいほどの血の臭いとは、言葉ではどうしても表せられへん。まさに「焼ける臭い」とはこういう臭いや。

 事務所のあちらこちらに散った血液。初めて嗅ぐ臭い。でっかい壺が粉々に砕け散った跡。1人や2人とはとても考えられへんほどの、バケツを何杯もひっくり返したような血の量……。その「恐怖」は空気までをも変えてしまう。呼吸をしていると、窒息してしまいそうなほどに、重たく、苦しくて、そして冷たく張り詰めた空気やった。もちろん、一瞬でも気を抜いたら吐いてしまうような状態や。もはや脳みそなんぞ、何が起きているか理解できへんぐらいの恐ろしい現場やった。

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 どこを見回しても焦りと恐怖の感情しか湧かない。実際の何十倍にも感じる時間。早く済ませたいという心の声とは裏腹に、やってもやっても終わる気がしない掃除。ワシは平常心を保とうと必死になりながらやり続けた。情けないが、生まれて初めての恐怖を感じた。ものすごい早さで心臓の鼓動が脈打ち、もはや、体の奥底から震えが湧いて出ては止まらぬ状態であった。

 追い打ちをかけるかのように所々で目にする血だまり。床の血だまりの中には血ともよくわからぬ牛のレバーのような塊があるんや……。半泣きながらワシは、「極道を甘く見ていた」と、嘘か真かもようわからんほどの緊張と恐怖の中で掃除を終えたのであった。