朝倉義景は、義昭を手厚く遇した。しかし、彼の志はあくまでも越前を守ることにあったらしく、義昭の求める上洛への協力に応じることはなかった。
その後、義昭は越前を去って織田信長を頼り、その支援によって上洛し、将軍就任を果たす。
しかし、この「義昭・信長政権」と朝倉氏は様々な理由から対立を深め、ついには、義昭の憲を受けた信長と、こうして戦場で相まみえることとなった。
あの越前での宴に列席していた頃は、まさか義昭と敵対することになろうとは、真柄は考えもしなかっただろう。そしてまた、かつて披露した大太刀を、このような負け戦で見せつけることになることも。
だが、彼は己の運命を嘆いたりはしなかったのではないか。人並外れた膂力(りょりょく)も、振るう相手が片田舎の小領主や一揆などでは、乱世に生まれた甲斐がない。天下人の軍勢を相手に、己の武辺を存分に見せつける機会を得たことは、ある意味では僥倖(ぎょうこう)とさえ言えるかもしれなかった。
「我が名は真柄十郎左衛門! 志の者あらば、我と引き組んで勝負せぬか!」
織田・徳川勢に向かってそう声を上げると、数名の武者が槍や太刀を手に、こちらに襲い掛かってきた。真柄は、得意の大太刀でもって、群がる敵の槍を斬り払い、太刀を破壊し、さらには甲冑ごと真っ二つに斬り伏せた。
かつて夜叉神に勝るとさえ言われた剛力の限りを尽くし、獅子奮迅の活躍を見せた彼は、やがて敵将の一人によって討たれ、その首を刎(は)ねられた。
誰が真柄を討ったのか
姉川の戦いの3年後――天正元年(1573)、朝倉氏は滅亡するが、真柄十郎左衛門の武名はその後も長く語り継がれ、多くの浮世絵や講談の題材となった。
その活躍は、時代が下るほどに脚色され、
「朝倉家の真柄十郎左衛門は、徳川家の本多忠勝と一騎打ちを演じ、“北国無双の大力”と“東国無双の武勇”を競い合った末、ついに忠勝に討たれた」
などという筋書きとなって、世間に広く流布した。
無論、上記の話は明らかな創作だが、では、実際のところ、真柄を討ち取ったのは誰なのか。これについては、大きく分けて二つの説がある。