一つは、匂坂吉政(さぎさかよしまさ)が討ったというもの。
匂坂氏(向坂、鷺坂とも)は遠江(静岡県西部)出身の徳川家臣で、吉政は、一族の匂坂式部、匂坂六郎次郎、郎党の山田宗六と共に真柄に攻め掛かり、激戦の末、吉政が首を取ったことが、『寛政譜』『甫庵信長記』などに伝わっている。
もう一つは、青木一重(あおきかずしげ)が討ったというもの。
一重は美濃(岐阜県南部)出身。その生涯で様々な武家のもとを渡り歩き、最終的には大名(麻田藩主)となった人物で、姉川の戦いのときは徳川家にいた。
『信長公記』の首級記録(討取頸之注文)には、「真柄十郎左衛門の首は、青木民部(一重)が討ち取った」との記述がある。また、このとき彼が用いた孫六兼元の太刀は、「青木兼元」あるいは「真柄切(まがらぎり)兼元」と呼ばれて伝来し、現在は重要美術品に指定されている。
ただし、『信長公記』の当該の記述は、同書の成立時のものではなく、のちに補足されたものではないかとの指摘もあり、また、『甫庵信長記』などには「一重が討ったのは、十郎左衛門ではなくその息子」との伝承もある。
「真柄十郎左衛門」は2人いた?
ところで、2020年、福井県立歴史博物館が興味深い新史料を入手した。真柄氏の子孫である、福井藩士・田代氏が記した『真柄氏家記覚書』である。
同書は、姉川の戦いの当事者で、のちに福井藩に仕えた匂坂式部の証言なども踏まえて、真柄一族に伝わる話を述べている。その内容は、以下のようなものである。
「匂坂吉政が討ち取ったのは、真柄備前守という老武者だ」
「匂坂式部曰く、真柄を討ったのは吉政だが、“はじめに槍を付けたのはお主だ。私は助太刀をしたに過ぎぬ”として、首級を式部に譲ったという」
「備前守は若いころ十郎左衛門と名乗っており、たびたび武功を挙げ、その名を世に広く知られていた。のちに十郎左衛門の名を息子に譲り、自らは備前守と称した」
「『甫庵信長記』の中で、備前守にあたる人物が十郎左衛門と記されているのは、以前の名乗りが有名だったからだろう」
『真柄氏家記覚書』はあくまで後世に記されたものであるため、信憑性については注意が必要だが、「真柄十郎左衛門」にあたる人物が二人いたという同書の内容は、匂坂吉政・青木一重のどちらが真柄を討ったのかという謎に、一つの答えを示唆しているともいえよう。
参考:大河内勇介『戦国時代の真柄氏 真柄氏家記覚書の紹介』(「福井県立歴史博物館紀要特別号」収録)2022
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