そして屋敷の池で眞人と対峙するシーンでは、いよいよアオサギは異形の存在へと姿を変える。サギの長く太いくちばしの裏に、まるで「歯茎」のような不気味な肉塊が現れ、「歯」がズラリと並んでいく不気味な描写は特筆に値する。さらに物語が進むと、なんとアオサギの着ぐるみを脱ぐかのように、小さいおじさん「サギ男」が現れるという、衝撃の展開となる……! このように本作のアオサギは「リアルな鳥←→ファンタジーなサギ男」を両極として変貌を重ねていくのだが、その中にも細かいグラデーションがあって、たとえばサギ男の「脚の曲がり方」が場面によって違ったりするので注目してみよう。
こうした一連の、リアルとファンタジーを常に反復横とびするような変貌の表現は、場面によって全く異なるキャラクターデザインが可能な「手描き2Dアニメ」にしかできない芸当だ。生き物がもつ愛らしさと、禍々しいまでの生命力を鮮やかに描き出す名手・宮崎駿の本領発揮と言っていい。
なぜ、宮崎駿はアオサギを選んだのか
それにしても、なぜアオサギなのだろう。本作のアオサギが何を表しているのかを考える上で、まずは基本的で生物学的な事実から始めたい。それは「アオサギがとても大きな鳥である」ということだ。アオサギの体長は約93cmと巨大で、同じくサギ類だが真っ白なダイサギ(89cm)や、 黒い羽の水鳥カワウ(81cm)などより、もう一回り大きいことになる。
アオサギは日本では特に珍しい鳥ではないため、私たちはこれほど大きな動物がとても身近にいても、そのことを普段あまり意識しない。それほど人々の意識にのぼらない「見えざる」存在だといえる。
そしてアオサギの佇む水辺は、人間の領域(陸)と自然の領域(川や海)の「境界」である。 そんな境界に佇む「見えざる」巨大な動物といえば、『となりのトトロ』のトトロも連想するし、 実はアオサギはジブリ的なイマジネーションを喚起する動物なのではないかと思えてくる。
もっと言えばアオサギに限らず、鳥そのものが「境界的」な存在でもあると言える。鳥はもふもふした羽毛や、温かい体や、つぶらな瞳などの特徴をもち、人間に親近感を与える動物でありながら、一方で恐竜と同じグループに属し、哺乳類とは異なる進化を遂げたからこその「絶対的な他者性」も併せ持つ。 映画の登場シーンでも(周囲の肉状のひだと共に)強調される、アオサギのギョロリとした目はその「他者性」を象徴するパーツだ。小鳥のような可愛らしい黒目とは一線を画し、人間の愛着を遮断するかのような爬虫類的な鋭さがある。
目の他にも、本作でアオサギの他者性を強調する重要なパーツがある。それは足だ。4本指のアオサギのメタリックな足が、キシ、キシと不気味な音をたてながら、眞人の頭上の屋根を闊歩するシーンは特に印象的だ。半蹼足(はんぼくそく)と呼ばれ、指の根本に小さな水かきがあるサギの足の細部も写実的に描写される。
このように生物学的な面に着目すると、「親和性」と「他者性」の間の絶妙な「境界」上に位置する動物として、本作のアオサギが描かれていることがわかるだろう。