「宮崎駿」と聞いて、あなたは何を思い浮かべるだろうか。
『風の谷のナウシカ』、『となりのトトロ』、『天空の城ラピュタ』、『魔女の宅急便』。これらの作品の共通点はただひとつ。「少女が空を飛ぶこと」である。ナウシカやキキは道具を使って空を飛び、トトロにしがみついてサツキとメイは空を飛び、シータは空から現れた少女だった。
あるいは『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』においてもまた、縦横無尽に屋根の上や森の中を――それは時に飛んでいるかのような速度で――駆け巡る少女の姿が描かれる。
空飛ぶ少女が描かれる一方、少年たちは…
そう、これまで宮崎は、「空飛ぶ少女」を描き続けてきたのだ。言うまでもなく「空を飛ぶこと」は、宮崎にとって最もフェティシズムを抱く瞬間のひとつである。しかしそれでは宮崎が描いてきた「空飛ぶ少年」はどうだろうか。
自転車を漕いで空を飛ぼうとするも、どうしてもキキのように縦横無尽に飛ぶことはできないトンボ。あるいは空を飛ぶ時は龍となり、湯婆婆の手下にならなくてはいけないハク。豚の姿でしか飛行機に乗ることのできない、呪われた中年パイロット・ポルコ。
鮮やかに軽やかに空を飛ぶ少女たちと比較すると、彼らが空を飛ぶことには、どうしてもスティグマが付いて回るのだ。まるで宮崎自身が、「男が空を飛ぶには、罪を背負わなくてはならない」とでもいうかのように。
その罪を明らかにしたのが、前作『風立ちぬ』だった。
『風立ちぬ』の主人公は、零戦の設計者である堀越二郎だ。自分が乗る車の外には、飢えた子どもたちがいる。しかしその貧乏な国は、自分たちが作る飛行機のために多額の資金を投じている。この現実を見つめながら、それでも二郎は美しい飛行機を作ることをやめない。航空技術者のカプローニが二郎の夢の中に現れて、こう告げるシーンがある。
「空を飛びたいという人類の夢は、呪われた夢でもある。飛行機は殺戮と破壊の道具になる宿命を背負っているのだ。それでも、私はピラミッドのある世界を選んだ」
飛行機は、美しくも呪われた夢である――。『風立ちぬ』で、青年の姿に負わせた運命は、誰よりも飛ぶ夢に魅せられた宮崎駿の物語でもあった。なぜなら宮崎がアニメーターとして描きたくて仕方がない「空を飛ぶ」夢は、戦争を賛美することに他ならなかったからだ。(※1)