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『君たちはどう生きるか』冒頭シーンの表現は…

『君たちはどう生きるか』は主人公の少年・眞人が駆けるシーンから物語が始まる。燃える空を眺め、家の階段を駆け降り、空襲警報が鳴りやまぬ街を走り抜けて、外へ出てゆく――この一連のシークエンスに魅せられた観客はたくさんいるだろう。

 宮崎は、少女に仮託せずに少年の身体表現と向き合ったのだ。そしてこの表現は、82歳になった宮崎駿の物語が、眞人という少年と巡り合った瞬間そのものだった。

 それでは、眞人の身体で宮崎が描こうとしていたものとは、何だったのだろうか? 私は、「自分にとって永遠の、ヒロインは、母である」ということなのだと考えている。それは『風立ちぬ』で告白した「自分の夢は、戦争に使われていても、飛行機にある」ことと同じくらい、宮崎にとっては、大きな話だったのだ。

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生命力を奪うアニメを作ってしまったのだ、という宮崎の懺悔

 本作は二つの世界によって構成されている。ひとつは現実の世界、そしてもうひとつはイメージの世界である。このイメージの世界は、「人間が産まれる前の場所」でありつつ、同時に「宮崎駿が描いてきたフィクションの世界」のことでもある。

 その証として、イメージの世界においては、これまでジブリ作品で描かれてきたモチーフが頻出する。『もののけ姫』のこだまを彷彿とさせる白い精霊のワラワラ。ラピュタの城のような建物。ポニョが住んでいそうな海。セルフオマージュにも見えるほど、イメージの世界には「ジブリ」的な存在が反復される。

 その世界では、ワラワラという「卵」を通して、新しい生命が生まれている。児童文学を読み、子どもたちは滋養をもって、大きくなる。――それはまるで文化が子どもたちを生かすのと同じように。

 だが、このワラワラ=「人間たちの卵」を食らってしまうペリカンという鳥が存在する。眞人は、「だめだ」と言われていたのに、ふいにペリカンをイメージの世界に引き入れてしまうのだ。

 これはまさに、子どもたちの生命力を奪うアニメを自分たちが作ってしまったのだ、という宮崎の懺悔であった。

宮崎駿監督 © 文藝春秋

 だがその豊饒なイメージの世界も、壊れつつある。インコという、イデオロギーしか叫ばない身体性のないフィクショナルな存在たちが支配しようとしているのだ。

 インコのキャラクターフォルムは、ちょっとやりすぎなくらい、薄っぺらい。インコの王様にいたっては、あえて「アニメ的」であるかのようなデザインになっている。眞人がインコを外の世界に放つと、物言わぬただの鳥になったように、このインコたちは現実世界には存在することができない。イメージの世界にしかいられない大量のインコは、まるでインターネットという武器を得てしまった現代人のようにも見えてくる。